黒田家出奔後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/09 03:45 UTC 版)
黒田如水(孝高の法号)の死から2年後の慶長11年(1606年)、基次は一族揃って黒田家を出奔する。これは基次が他国の者(細川氏、池田氏)と頻繁に書状を交わすことに原因があった。当初は小倉藩の細川忠興を頼ったが、元から関係がこじれていた黒田・細川両家が一触即発の状況となり、徳川家康などの仲裁により細川家を退去する。基次の智勇を惜しんで福島正則・前田利長・結城秀康などから召し出しがかかるが、長政により「奉公構」がなされていたため実現しなかった。一旦故郷である播磨国に戻り、領主となっていた池田輝政を介して岡山藩の池田忠継に仕えた。しかし、「奉公構」の影響で慶長16年(1611年)より京都で浪人生活を送ることになる。慶長16年には基次の黒田家への帰参問題が起こり、長政は幕府を通して交渉を行ったが、基次と連絡がうまくとれず実現することはなかった。
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