黒田家時代とは? わかりやすく解説

黒田家時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/12/26 15:08 UTC 版)

久留里藩」の記事における「黒田家時代」の解説

寛保2年1742年7月28日上野国沼田藩から黒田直純が3万石入り、再び久留里藩立藩した。直純の黒田家は、筑前国福岡藩黒田家とは別の一族であり、徳川綱吉家臣で元は館林藩家老黒田用綱一族である。 直純は、土屋家改易のときに廃城となっていた久留里城再建新規家臣召し抱え城下町整備など藩政基盤固めに尽力し大坂加番奏者番などを歴任した。しかし第3藩主直英の頃から藩財政困窮化が深刻となり、このため倹約俸禄制改革、三割の法制定などによる藩政改革が行なわれたが、効果はなかった。第7代藩主直静のとき、藩校三近塾が創設された。しかし、幕末期相次ぐ異国船の出没備えて海防や、歴代藩主多く大坂加番任じられたため、そのための出費著しく財政悪化一途たどった戊辰戦争のとき、最後藩主直養は新政府軍帰順した翌年版籍奉還知藩事となり、明治4年1871年)の廃藩置県久留里藩廃藩となったその後久留里県経て木更津県編入された。 また、明治末期旧藩黒田家依頼によって、家老一族森勝蔵によって藩史久留里藩一班』『雨城一滴』が編纂され、譜代小藩内政細かく記されている貴重な郷土資料となっている。この森家黒田直邦下館城であった時代から仕え黒田家重臣で、その祖は津山藩森家由来する一族である。

※この「黒田家時代」の解説は、「久留里藩」の解説の一部です。
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