黒田家時代
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寛保2年(1742年)7月28日、上野国沼田藩から黒田直純が3万石で入り、再び久留里藩を立藩した。直純の黒田家は、筑前国福岡藩の黒田家とは別の一族であり、徳川綱吉の家臣で元は館林藩家老の黒田用綱の一族である。 直純は、土屋家改易のときに廃城となっていた久留里城の再建や新規の家臣召し抱え、城下町整備など藩政の基盤固めに尽力し、大坂加番や奏者番などを歴任した。しかし第3代藩主直英の頃から藩財政の困窮化が深刻となり、このために倹約や俸禄制度改革、三割の法制定などによる藩政改革が行なわれたが、効果はなかった。第7代藩主直静のとき、藩校三近塾が創設された。しかし、幕末期は相次ぐ異国船の出没に備えての海防や、歴代藩主の多くが大坂加番に任じられたため、そのための出費が著しく、財政は悪化の一途をたどった。 戊辰戦争のとき、最後の藩主直養は新政府軍に帰順した。翌年の版籍奉還で知藩事となり、明治4年(1871年)の廃藩置県で久留里藩は廃藩となった。その後は久留里県を経て、木更津県に編入された。 また、明治末期に旧藩主黒田家の依頼によって、家老の一族の森勝蔵によって藩史『久留里藩制一班』『雨城廼一滴』が編纂され、譜代小藩の内政が細かく記されている貴重な郷土資料となっている。この森家は黒田直邦が下館城主であった時代から仕える黒田家の重臣で、その祖は津山藩主森家に由来する一族である。
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