黎明時代
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1894年11月、清国を打倒し共和制国家樹立を目的とした興中会が孫文を中心としてハワイで結成された。興中会はたびたび武装蜂起を試みたが失敗した。 1905年8月には清朝を打倒することを目指して結成されていた結社が大同団結することで合意し、興中会、華興会、光復会が合併して日本の東京で中国同盟会が結成された。中国同盟会は機関紙の『民報』を発行し、孫文は三民主義の思想を発表した。 1911年10月には武昌起義が起こり、翌1912年1月には南京で中華民国が成立、孫文を臨時大総統に選出した。2月には宣統帝(愛新覚羅溥儀)が退位し、辛亥革命が成り、清朝は滅亡した。同年8月には中国同盟会を中心として統一共和党、国民公党、国民共進会、共和実進会等が合併して「国民党」が結成された(この国民党は本記事の中国国民党とは別の組織であると認識されている)。 1912年12月から翌1913年2月にかけて実施された国会選挙では国民党が第1党となったが臨時大総統に就任していた袁世凱に警戒され、国民党の主要人物であった宋教仁は上海で暗殺された。反発した国民党員は袁世凱打倒のため武装蜂起を試みるが失敗に終わり、主要党員の多くは海外に逃亡、残った党員も弾圧されて国民党は破滅状態になり、11月には国民党に解散命令が出された。日本に亡命した孫文は1914年7月、東京で中華革命党(こちらが中国国民党の前身)を結成した。この中華革命党において孫文は党員に対して絶対服従を要求した。同年の第一次世界大戦の勃発に乗じて1915年に日本が二十一カ条の要求を突きつけた。すると袁世凱は帝政を樹立し、難局を乗り切ろうとした。が、かえって帝政反対運動である第三革命が起こった。結局実現できないまま袁世凱は1916年に亡くなってしまった。翌1917年には孫文が広東軍政府を樹立した。しかし、北京の段祺瑞軍閥政府に戦敗し、上海へ逃げた。その中、1919年にヴェルサイユ条約に反対する五四運動が始まり、中国民衆の帝国主義に対する民族運動が一気に高揚した。
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