鹿児島県・宮崎県の田の神
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/19 01:27 UTC 版)
田の神の具体的な像は不明なことが多い。すでに述べた通り、水口にさした木の枝やそれを束ねたもの、花、石などが依代とされることが多く、常設の祠堂をもたないのが全国的な傾向である。しかし、そうしたなかにあって田の神の石像が九州地方南部の薩摩、大隅、日向の一部(都城周辺)に限って分布することは注目に値する。ここでは、集落ごとに杓子やすりこぎを持ったタノカンサァ(田の神さま)と称する石像を田の岸にまつる風習がみられる。鹿児島市西佐多浦町の民俗事例では「田の神オナオリ」といって、年1回春に、田の神に念入りに化粧が施されたうえ、戸外にかつぎ出して花見をさせ、宿うつりを行っている。この例をはじめ、南九州では旧暦2月と旧暦10月または11月のいずれも丑の日に(つまり春秋の2度にわたって)田の神講が広くおこなわれている。 タノカンサァの石像は18世紀初め頃よりつくられ始めたものとみられ、薩摩藩領にのみ石像が分布して他地域ではみられないことはこれを傍証するが、形態的には、 仏像型 → 僧型 → 旅僧型 神像型 → 神職型 → 田の神舞型(または神舞神職型) の系統の異なる2流の展開がみとめられ、これについては、小野重朗による詳細な研究がある。 青山幹雄の『宮崎の田の神像』によれば、宮崎県の場合は、旧薩摩藩支配領域に元々分布していたが、明治時代以降人々の移動により、その分布がやや拡大し、たとえば宮崎市近郊にも広がったこと、古い習慣で「オットイタノカンサー」、すなわち、部落の若者が他の部落から石像を盗む習慣などが記載されている。これは、習慣であるから、また取り戻すのが普通で、実際に盗んだままということは少ない。また、秋の収穫時の祭りには品のない言い合いをして、日ごろのうっぷんを晴らしたり、それについては江戸時代では、武士などは見て見ぬふりをしたという。宮崎県には神官型が多いこと、鹿児島県には農民型が多いこと、宮崎県小林にみられる陰陽石や、霧島噴火なども関係あるとしている。宮崎県に僧侶形が稀なのは、一向宗弾圧と関係あるのではないかと述べている。宮崎市の生目小学校前にはコンクリート製の田の神が設置されている。 もとより、田の神講そのものは他地域でも広くみられ、「田神」「田ノ神」「田の神」の文字の彫られた石碑は南九州に限らず、全国の路傍などに広汎に分布している。 鹿児島県・宮崎県の田の神像記銘年号一覧(年号の有る像のみ)年号鹿児島県宮崎県宝永(1704) 2 0 正徳(1711) 2 0 享保(1716) 20 11 元文(1736) 12 4 寛保(1741) 6 0 延享(1744) 4 1 寛延(1748) 11 1 宝暦(1751) 15 7 明和(1764) 14 0 安永(1772) 29 3 合計11527
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