鳥羽伏見の戦いの与えた影響とは? わかりやすく解説

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鳥羽・伏見の戦いの与えた影響

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 02:19 UTC 版)

戊辰戦争」の記事における「鳥羽・伏見の戦いの与えた影響」の解説

1月5日山陰道鎮撫総督西園寺公望及び東海道鎮撫総督橋本実梁発遣された(西国及び桑名平定)。7日慶喜追討令が出され次いで旧幕府朝敵となった10日には藩主慶喜共犯者みなされ会津藩桑名藩高松藩備中松山藩伊予松山藩大多喜藩官位剥奪京屋敷没収3月7日姫路藩追加された。また、藩兵が旧幕府軍に参加した疑いが高い小浜藩大垣藩宮津藩延岡藩鳥羽藩には藩主入京禁止処分下され、これらの藩も「朝敵」とみなされた。ただし、大垣藩1月10日時点藩主謝罪恭順誓約出していたことから、13日新政府軍中山道総督)の先鋒務める事を条件朝敵から外す確約与えられ4月15日正式に解除更には戊辰戦争の功によって賞典禄まで与えられている。なお、同藩の場合新政府参与に同藩重臣小原忠寛)がおり、彼のとりなし新政府大垣藩双方受け入れた事が大きい。 11日には改め諸大名に対して上京命令出された。これはそれまで諸侯による「公平衆議」の開催名目にした上京命令とは異なり朝敵とされた「慶喜追討」を目的としていた。これによって新政府これまで非協力的な藩に対して恭順すれば所領安堵などの寛大な処分を示す一方で抵抗すれば朝敵慶喜及び旧幕府)の一味として討伐する方針突きつけるになった。特に西日本では慶喜討伐令と上京命令鎮撫軍の派遣の報を立て続けに受ける事になり、所領安堵追討回避のために親藩譜代藩も含めて立て続け恭順表明し鳥羽・伏見の戦いに関わったとして「朝敵」の認定受けた藩ですら早々に抵抗諦めて赦免求め事となった。1月末には藩主慶喜とともに江戸逃亡した桑名藩ですら、重臣藩士達が城を新政府軍明け渡し3月には近畿以西諸藩は完全に新政府支配下入った1月長州軍が大坂城接収大坂新政府管理下に入った同日東山道鎮撫総督岩倉具定任命された。11日神戸事件起こり条約諸国新政府対峙するが、交渉成立し25日条約諸国局外中立宣言行い日本内戦状態認定された。20日北陸道鎮撫総督高倉永祜発遣された。また、神戸事件誘発される形で、堺事件発生した幕府及び旧幕府勢力近畿失い薩長中心とする新政府がこれに取って代わった。また旧幕府国際的に承認されていた日本国唯一の政府としての地位失った。また新政府西国平定並行して東征軍組織され東山道東海道北陸道分かれ2月初旬には東進開始した

※この「鳥羽・伏見の戦いの与えた影響」の解説は、「戊辰戦争」の解説の一部です。
「鳥羽・伏見の戦いの与えた影響」を含む「戊辰戦争」の記事については、「戊辰戦争」の概要を参照ください。

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