騎手引退まで
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1932年、目黒競馬場を管轄する東京競馬倶楽部が東京優駿大競走(日本ダービー)を創設。藤吉はその第1回競走に3頭の管理馬を送り込み、自身もオオツカヤマで騎手として出走した。当日は6番人気であった。レースはスタートから先頭を奪ったワカタカがそのまま逃げきって初代ダービー馬となり、後方から追い込んだオオツカヤマは4馬身差の2着となった。翌年、目黒競馬場が府中市へ移転して新たに東京競馬場が竣工し、これに伴い目黒祐天寺裏にあった尾形の厩舎も府中へ移った。尾形は府中に2000坪の土地を買い、16頭収容の厩舎を2棟と自宅や雇員の小屋などを建てた。翌1934年、東京競馬場での初開催となった日本ダービーに藤吉は4頭を送る。本命視されていた中村一雄厩舎(阪神)のミラクルユートピアが競走当日の怪我で出走を取り消し、尾形厩舎のフレーモア(大久保亀治)、テーモア(伊藤正四郎)、デンコウ(二本柳勇)に人気が集まると、結果もこの3頭が1着から3着を占め、藤吉は第3回にしてダービー初優勝を果たした。翌年の第4回競走ではアカイシダケに騎乗して2着となり、これが騎手として最後のダービー出走となった。1936年には伊藤正四郎騎乗のトクマサでダービー2勝目を挙げた。 同年、全国各地で独立運営されていた11の競馬倶楽部が日本競馬会として統合されるに当たり、調教師と騎手の職域を明確化する「調騎分離」が打ち出された。藤吉は新たに厩舎に入った内藤潔、松山吉三郎、保田隆芳、八木沢勝美といった多くの弟子が成長しつつあることに鑑み、11月23日の目黒記念でアカイシダケに騎乗して4着となったのを最後に騎手を引退し、以後調教師専業となった。騎手成績は明確に集計されている範囲では373戦148勝。勝率は3割9分6厘、後年算出されるようになる連対率(2着以内率)は6割超という高率であった。騎手としての日本ダービー優勝はならなかったが、帝室御賞典11勝は最多勝利記録である。
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騎手引退まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/04 02:50 UTC 版)
父親が馬主で函館喜弘厩舎に預託していて幼稚園時代より競馬場に行っていた。小学校時代には体も小さかったことから函館からも騎手になるよういわれており、本人も動物好きでもあったことから騎手を志す。中学時代には函館の紹介で中山競馬場の乗馬クラブに通ったほか、休みには函館厩舎で手伝いなどをしていた。中学卒業とともに地方競馬教養センターに入る。 初騎乗は1989年4月19日船橋競馬第3競走(フミノアスター)、初勝利は同日第10競走(ミヤマビクトリー)。NARグランプリ優秀新人騎手賞を獲得するなど活躍した。調教師転身のため2006年5月31日に騎手を引退。地方競馬通算5286戦584勝(重賞5勝)。中央競馬通算16戦0勝。
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