首都圏の誕生
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 16:56 UTC 版)
1975年11月7日、大統領令第824号により、メトロ・マニラ(Metro Manila)が正式に設立された。1978年6月2日、大統領令第1396号により、フィリピンの首都地域(National Capital Region)は首都圏(metropolitan area)とされた。マニラ首都圏が設立された当時は、マニラ、ケソン市、カローカン、パサイの4都市と、ラスピニャス、マカティ、マラボン、マンダルヨン、マリキナ、モンティンルパ、ナヴォタス、パラニャーケ、パシッグ、サンフアン、タギッグ、ヴァレンズエラ、パテロスの13自治体から構成されていた。現在、これらの自治体は独立した公認都市となっているが、パテロスだけはまだ町(municipality)として残っている。 フェルディナンド・マルコス大統領が、妻のイメルダ・マルコスをマニラ首都圏の初代知事に任命した。イルメダは「シティー・オブ・マン」キャンペーンを展開し、フィリピン文化センター(英語版)、メトロポリタン民族芸術劇場(英語版)、フィリピン国際コンベンションセンター(英語版)、ココナッツパレス(英語版)などの文化施設、そしてフィリピン肺センター(英語版)、フィリピン心臓センター(英語版)、フィリピン腎臓センター(英語版)などの医療施設を建設した。1986年2月末、4日間にわたるエドゥサ通り沿いのデモでマルコス大統領は打倒された。この民衆運動は現在「ピープルパワー革命(エドゥサ革命)」として知られ、「世界を驚かせた革命」として国際的な見出しを飾った。 1986年、コラソン・アキノ大統領は大統領令第392号を発し、マニラ首都圏委員会を改組・改変し、マニラ首都圏庁(Metropolitan Manila Authority)と改名した。首都圏の市長たちは、身内からこの機関の議長を選んだ。その後、1995年に共和国法7924号により再び編成され、現在のマニラ首都圏開発庁(英語版)(MMDA)が誕生した。同庁の議長は大統領が任命し、市長のような選挙で選ばれる役職を兼任してはならない。 1988年は、フィリピン国内ではマニラ首都圏の失業率が最も高く、労働雇用省(英語版)(DOLE)と国家統計局(英語版)によれば、地域の労働人口の20.1%が失業者であった。 2014年末、当時のMMDA長官フランシス・トレンティーノ(英語版)は、ラグナ州サンペドロ(英語版)を18番目の加盟都市としてマニラ首都圏に含めることを提案した。トレンティーノは2015年1月のMMDA市長会議の初会合で、同市のMMDAへの加盟を推進すると述べた。 ココ・ピメンテル三世上院議員は、法案が成立すればサンペドロを別の立法区として次の国・地方選挙で開始しようとする第3029号法案を提出した。
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