露布説
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まず、古代中国の文献に、いわゆる「短里」があったという記録は一切ない。 一方、古代中国には、軍事報告書を「実際の距離を正確に10倍して記載する」露布という慣習があった。 『後漢書』卷85 東夷列傳第75「桓靈閒 倭國大亂 更相攻伐 歴年無主 有一女子 名曰卑彌呼 年長不嫁 事鬼神道 能以妖惑衆 於是共立爲王(桓帝・霊帝の治世の間(146〜189年)、倭国大乱(倭国王の座を争う内乱。外国史書がわざわざ記すのは国王の座に交替があった場合のみ)、さらに互いに攻め合い、8年±数年も主無き状態となった。卑弥呼という名の一人の女子が有り、年長だが嫁いでいなかった。鬼神道を用いてよく衆を妖しく惑わした。ここに於いて共立し王にした。)」とある通り、倭国大乱は、最も早くても146年に勃発し、最も遅くても189年までには倭国大乱が集結して卑弥呼が女王に共立されたと推定される。 『三国志』魏書 卷30 東夷伝 倭人(魏志倭人伝)「其國本亦以男子爲王住七八十年 倭國亂 相攻伐歴年 乃共立一女子爲王 名曰卑彌呼 事鬼道 能惑衆 年已長大 無夫婿(其の国もまた元々男子を王として70〜80年を経ていた。倭国乱(倭国王の座を争う内乱。王位争奪は良く有る事だが、外国史書がわざわざ記すのは国王の座に交替があった場合のみ)。8年±数年間も相互に攻め合った。そこで、一人の女子を共立して王にした。名は卑弥呼という。鬼(神)道を用いてよく衆を惑わした。年齢は35歳を過ぎ(中国史書では35歳に達すると年長大と表現される)、夫は無かった。)」とある通り、107年の倭王帥升の後漢遣使から70〜80年後となる177〜187年頃までには倭国大乱が集結して卑弥呼が女王に共立されたと推定される。 『梁書』卷54 列傳第48 諸夷傳 東夷条 倭「漢靈帝光和中,倭國亂,相攻伐歷年,乃共立一女子卑彌呼爲王。((後)漢の霊帝の光和年間(178〜184)、倭国乱(倭国王の座を争う内乱。外国史書がわざわざ記すのは国王の座に交替があった場合のみ)、8年±数年も相互に攻め合った。そこで、一人の女子卑弥呼を共立して王にした。)」とある通り、178〜184年までには倭国大乱が集結して卑弥呼が女王に共立されたと推定される。 『三国史記』新羅本紀に「二十年夏五月。倭女王卑彌乎。遣使来聘」とある通り、遅くとも173年の旧暦5月には、倭国大乱の終結により卑弥呼が女王に共立されていた、と推定される。 帯方郡は204年に設置され313年に廃された。 三国志の魏志は魏(220〜265)を対象とする。 上記は全て露布の慣習があった時代である。 次に、古代中国における「里」の距離について。次の通り時代ごとに微妙に異なる。 西周: 358.20m 東周: 415.80 秦: 415.80m 漢: 415.80m 魏呉蜀三国時代: 459.00m 晋: 459.00m 隋: 459.00m 唐: 443.70m 魏志倭人伝は魏呉蜀三国時代の史書なので、当時の一里は459mであったことは確実である。帯方郡は行政機関と軍事拠点を兼ねており、報告書は全て軍事報告書として書かれたと推定される。その場合、帯方郡の情報を元に書かれたと推定される魏志倭人伝は、露布で千里と記されていても、実際の距離はその1/10の45.9Kmであった可能性が高い。実際、魏志倭人伝には、釜山から対馬、対馬から壱岐、壱岐から九州北岸がそれぞれ千余里と記されているが、最短渡海距離で考えれば、釜山南端から対馬北端まで約50Km、対馬南端から壱岐北端まで約50Km、壱岐南端から九州北岸(糸島半島の付け根)まで約50Kmなので、露布で「正確に10倍した千余里」にほぼ合致する。 したがって、魏志倭人伝の里の距離は、古代中国の文献に明記される露布慣習で説明できる。(一方、いわゆる「短里」は一切古代中国の文献に出て来ない。)
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