露日辞典の中の下北弁
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/23 14:01 UTC 版)
1744年(延享元年)11月14日、千石船多賀丸(1,200石)が佐井湊(下北郡佐井村)を出航した。佐井湊を出たのち、多賀丸は大畑湊(むつ市大畑町)に立ち寄り、大豆・昆布・鰯糟などを積み込んで江戸に向かった。航海の途中、不運なことに多賀丸は暴風に遭って難破した。難破した多賀丸は漂流し、翌1745年(延享2年)4月13日、多賀丸は千島列島の温禰古丹島に漂着した。 多賀丸の乗組員17名の大部分が下北半島の出身であった。温禰古丹島に漂着時には、すでに6名が死亡しており、次いで多賀丸船主の竹内(伊勢屋)徳兵衛も亡くなった。残りの10名はカムチャツカ半島に送られた。10名は厚遇された上にロシア名までもらった。この内の3名は現在の岩手県宮古市の出身であったという。 日本人漂着の報を聞きつけたロシア政府は、この中から優秀な者5人を選び、首都ペテルブルクに招き、日本語学校の教師にした。やがて彼らはペテルブルクにてロシア人と結婚し、家庭を築いたが、1754年(宝暦4年)に日本語学校イルクーツク移転にともない、彼らもまた移動を余儀なくされた。 このとき、イルクーツクでロシアで初の「露日辞典」が編集された。編集にたずさわったのは、日本語教師となった多賀丸の船乗りたちであった。その日本語は、下北や宮古のことばであった。1792年にロシアの通商アダム・ラクスマンが根室にやってきたが、このとき通事たちが携帯してきた辞書はこの「露日辞典」だったといわれる。
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