阿字観の功徳
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阿字観について、古典の一つ『阿字義』には「阿字観の効能」として以下のように述べている。現行の阿字観と、古法の阿字観の違いが感じられて興味深いものがある。 阿字の効能について、もし、初心の行者がこの『阿字観』を感想する時に、自身の心が未だ(覚りも、仏も分からずに)純粋な境地や、しっかりとした禅定が得られていないならば、まず最初に仏画としての「蓮華」を描き、次に「月輪」を描き、その中に「阿字」を書いて軸装して目の前に掲げて、観想(瞑想)するべきである。 もし、その人がこの観想に熟達したならば、この「阿字」が心中より光を放って、あまねく三世十方法界の諸仏の浄土に届く。その際に、この光は瑜伽行者の頭頂から足先まで体中を巡ることになる。つまりは、この「阿字」を明らかに観想できれば、六根の諸々の罪業と障害が全て清められて清浄となる。また、六根が清浄になり無垢であれば、心の本質(心性)も無垢清浄となり、例えば、透明な水晶や清らかな満月のようなものとなる。 この状態で、(瑜伽行者が)世間における六道の輪廻に目を転じた際には、一切の草や木にいたるまでが砕け散り、おおよそ外境としてあらわれる(幻影の)全てが破れ去ってしまうものである。 この『阿字観』を修すると、このようによく一切の煩悩を除くことになり、それによりあらゆる効能がある。何故かというと、「八葉」を観想して多くもせず、少なくもしない(この「八葉」ということが肝心で)おおよそ人の心の形(心輪:心臓のチャクラ)は、八葉の蓮華の花が未だ開かないような形(未敷蓮華の形)をしており、八方に分かれた筋(輪線:脈管のこと)があり、男性は上に向かって開き、女性は下に向かって開いている。 今、この心を観想して、それを開く(開敷蓮華の形)のである。また、その際の「八葉」は(観想により本尊法における『胎蔵界』の中台八葉の)四仏四菩薩である。 心髄が具足するか、しないかは、すべてその(瑜伽行者の)心にかかっている。蓮華三昧の心が、もし、開くときには、無量の法門が具足する。それらは例えば、百八の三昧(瞑想)の法門、五百の陀羅尼(真言)の法門等である。このようにして、無量無辺の法門が具足しないということがないのである。 またもし諸仏を見たいという人、諸仏を(直接に)供養したいと思う人、菩提(覚り)を証発(証得)しようと思う人、諸々の菩薩と同じように生きて行きたいと思う人、一切衆生を利益しようと思う人、一切の悉地を得たいと思う人、一切智を得たいと思う人、これらの人は更に他の方法や瞑想法を求める必要はない。まさに唯々、この『阿字観』を観想するべきである。 一切衆生の自らの心は、元から今に至るまで清浄であるけれども、無明によって覆い隠されていて、その心の状態を言い表すことはできない。もし、この心を清めることができれば、すなわち、その心は(『大日経』に説く)「胎蔵界曼荼羅」となって現出する。 (この曼荼羅は)他の場所から持って来たのではない。更にまた、「阿字」も他から来たのではない。唯々、心より生じたものである。禅定を修して、その心はようやく清くなる。そして、心が清浄になるが故に「阿字」もまた心中に現出する。つまりは「阿字」の法門に入るが故に、(瑜伽行者は)大果報を得る。(その境地は)他人が授けることができるものではない。 もし、短命の人が日々の三時(朝・昼・夜)に、この「阿字」について考え、観想すれば、長寿を得ることができる。もし、出る息と入る息の中にこの「阿字」を観想すれば、壽命は伸び、いつまでも健康を保ち続ける。これは、この「阿字」の菩提心は(金剛界法と違って)不生不滅の法門だからである。 また、出る息と、入る息を工夫する場合には、鼻の先15センチの所に、この「阿字」を観想することである。 この観想による功徳はというと、下品の成就ならば、死の間際に当たる人が、むしろ生き返る。 中品の成就ならば、虚空に昇るが如き大自在の境地を得る。 上品の成就ならば、すなわち「無上正等覚」に至る。 -後略-
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