阿子島彦惣家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/10/27 06:19 UTC 版)
伊達氏と蘆名氏が南奥州の雌雄を決した摺上原の戦いで蘆名方として戦った安子島祐清の子の寛政は蘆名方について敗れ負傷し、治療のため、刈田郡中目村(白石市)に隠棲したという。しばらく、仕官せず町人をしていたものの、伊達家中が白石の陣、大坂の陣に出兵した際には、同地の領主であった片倉小十郎景綱の軍勢に従軍し武功を挙げるに至った。元和元年(1615年)、寛政は片倉氏の分限役となり家中並の御免屋敷を与えられ、その後は代々片倉氏の家臣として仕えた。三代彦惣以降は歴代当主は代々彦惣の名を襲名し、五代彦惣の代に知行500文を与えられ、苗字帯刀を許され阿子島姓を称した。五代目より阿子島氏では旅籠業を営むようになり、一方で片倉氏の他物聞役として情報収集の任を負うようになり、七代彦惣の代より士分となった。
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