関東大震災 - 震災後の復興
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「マリールイズ」の記事における「関東大震災 - 震災後の復興」の解説
1923年(大正12年)9月、関東大震災により巴里院が焼失した。マリールイズは、わずかな美容用具を荷車に乗せて公園に避難したところ、そこに女性たちが群がったことから、美容の再生に手応えを感じた。その再生への足がかりとしてまず、火災を免れた自宅のある麻布霞町に「マリー・ルゥヰズ化粧院」と「マリー・ルゥヰズ美容講習所」を設置した。後に手に職をつけたいとの女性が急増し、それ応えて講習所を5箇所に増やした。 翌1924年(大正13年)1月、皇太子裕仁親王と良子女王の婚儀が行われ、マリールイズが良子女王の支度を請け負った。他の皇族の結婚の支度も手掛けた。日本の大正期の婦人雑誌では、皇族の女性たちが花形として扱われていたため、これによりマリールイズは流行の発信地となったといっても過言ではなかった。 震災からの復興後は、都会では洋装化の兆しが見え始めた。マリールイズのもとへは、『婦人世界』『主婦之友』『婦人倶楽部』などの雑誌の記者が訪れて、洋服の着方、帽子のかぶり方などを取材し、記事にすることが多くなった。 1930年(昭和5年)、巴里院美容講習所は学校制度の改革に伴い、マリールゥヰズ美容女学校となった。マリールイズはこれを機に、以前から夢に見ていた、美容所学校の統合校舎の建築と、本格的な化粧院の開設に向けて、土地の購入など具体的な取組を始めた。翌1931年(昭和6年)、麻布材木町に「マリー・ルゥヰズ美容女學校」「マリー・ルゥヰズ化粧院」が完成、それまで分散していた女学校、化粧院、化粧品販売店舗などのすべてを統合した施設となった。周囲からは、学校の月謝をもっと高くすることを勧められても、マリールイズは「お互い苦しいのだから、1人でも技術を身につけることができるよう助けるのが使命」との主張を貫いた。 同1931年、マリールイズや山野千枝子らの請願の末に、美容を法的な職業として社会に認知させるための資格制度「美容術試験制度」が、警視庁管轄下の東京に導入された。
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