閑山島海戦の経過とは? わかりやすく解説

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閑山島海戦の経過

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/10 03:12 UTC 版)

閑山島海戦」の記事における「閑山島海戦の経過」の解説

6月14日三大名は釜山浦に集結したが、功名に逸った脇坂安治抜け駆けをして7月7日巨済島単独出撃をした。 一方二度出撃戦果上げた朝鮮水軍全羅使・李舜臣24隻)は7月6日日本水軍の動き察知する直ち出撃し、慶尚使・元均(7隻)と全羅使・李億祺25隻)の水軍合流した7月8日日本艦隊発見した李舜臣出撃主張する元均抑え、囮と潮流使った迎撃作戦展開したまた、この艦隊には亀船三隻が参加していたという。囮と海流乗って出撃した脇坂艦隊朝鮮水軍迎撃を受け大きな被害出し脇坂安治窮地陥るが、座乗船の大きさの数による機動性生かして撤退成功した李舜臣自身記録である「見乃破倭状」で日本艦隊発見数を大船36隻・中船24隻・小船13隻、撃破数を63隻と記録している。しかし、脇坂安治への動員定数1500人であることを考えると、発見数と戦果過大申告である。(翌年5月晋州城攻時の脇坂軍の点呼員数900人)。 韓国では、脇坂安治の軍の兵力5000~12000人、戦死者数50009000人などとする、史実資料検証しないまま、つまり全く学術的な方面無視して兵力死傷者10倍に誇張した創作的主張が行われているが、日本と韓国史料そのような記述存在しない日本側の史料である『「天正記第七巻所収「ちやうせん国御進発人数つもり」』や「高麗国御人数帳(島津家文書957号)」に記載されている脇坂安治兵数1500人である。また、石高が3万石程度大名である脇坂安治が、5000人以上の兵力動員することは不可能であり非現実的である。3石高から推定すれば1500人の動員数は妥当である。慶長の役においても、脇坂安治動員数1200人である。1600年関ヶ原の合戦での脇坂安治動員数900であった文禄の役での動員数の例 毛利輝元112万石動員30,000宇喜多秀家574,000石、動員10,000小早川隆景37万石動員10,000加藤清正20万石動員10,000小西行長20万石動員7,000人 大友義統、37万石動員6,000黒田長政125,000石、動員5,000立花宗茂132000石、動員2,500人 毛利秀包、75千石動員1,500人 大谷吉継、5万石、動員1,200九鬼嘉隆、35,000石、動員1,500脇坂安治、3万石動員1,500人 この海戦脇坂安治部将脇坂左兵衛渡辺衛門失い海賊出身真鍋左馬允は船を失って上陸後責任感から切腹した。また脇坂艦隊の内、海戦中に船を放棄して閑山島上陸した者が200人生還している。

※この「閑山島海戦の経過」の解説は、「閑山島海戦」の解説の一部です。
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