閑山島海戦の経過
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6月14日に三大名は釜山浦に集結したが、功名に逸った脇坂安治は抜け駆けをして7月7日に巨済島へ単独出撃をした。 一方、二度の出撃で戦果を上げた朝鮮水軍の全羅左水使・李舜臣(24隻)は7月6日に日本水軍の動きを察知すると直ちに出撃し、慶尚右水使・元均(7隻)と全羅右水使・李億祺(25隻)の水軍と合流した。 7月8日、日本艦隊を発見した李舜臣は出撃を主張する元均を抑え、囮と潮流を使った迎撃作戦を展開した。また、この艦隊には亀船三隻が参加していたという。囮と海流に乗って出撃した脇坂艦隊は朝鮮水軍の迎撃を受け大きな被害を出し、脇坂安治も窮地に陥るが、座乗船の大きさと櫂の数による機動性を生かして撤退に成功した。 李舜臣は自身の記録である「見乃梁破倭状」で日本艦隊の発見数を大船36隻・中船24隻・小船13隻、撃破数を63隻と記録している。しかし、脇坂安治への動員定数が1500人であることを考えると、発見数と戦果は過大申告である。(翌年5月の晋州城攻撃時の脇坂軍の点呼員数は900人)。 韓国では、脇坂安治の軍の兵力を5000~12000人、戦死者数を5000~9000人などとする、史実・資料を検証しないまま、つまり全く学術的な方面を無視して、兵力・死傷者を10倍に誇張した創作的な主張が行われているが、日本と韓国の史料にそのような記述は存在しない。日本側の史料である『「天正記」第七巻所収「ちやうせん国御進発の人数つもり」』や「高麗国動御人数帳(島津家文書957号)」に記載されている脇坂安治の兵数は1500人である。また、石高が3万石程度の大名である脇坂安治が、5000人以上の兵力を動員することは不可能であり非現実的である。3万の石高から推定すれば1500人の動員数は妥当である。慶長の役においても、脇坂安治の動員数は1200人である。1600年の関ヶ原の合戦での脇坂安治の動員数は900人であった。 文禄の役での動員数の例 毛利輝元、112万石、動員30,000人 宇喜多秀家、57万4,000石、動員10,000人 小早川隆景、37万石、動員10,000人 加藤清正、20万石、動員10,000人 小西行長、20万石、動員7,000人 大友義統、37万石、動員6,000人 黒田長政、12万5,000石、動員5,000人 立花宗茂、13万2000石、動員2,500人 毛利秀包、7万5千石、動員1,500人 大谷吉継、5万石、動員1,200人 九鬼嘉隆、3万5,000石、動員1,500人 脇坂安治、3万石、動員1,500人 この海戦で脇坂安治は部将の脇坂左兵衛と渡辺七衛門を失い、海賊出身の真鍋左馬允は船を失って上陸後に責任感から切腹した。また脇坂艦隊の内、海戦中に船を放棄して閑山島に上陸した者が200人生還している。
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