開戦~ワジリスタン合意(2001年~2006年)
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「ワジリスタン紛争」の記事における「開戦~ワジリスタン合意(2001年~2006年)」の解説
2001年12月、アフガニスタン・パキスタン国境地域のアフガニスタン側でアル・カーイダ掃討作戦を行っていた米軍に呼応する形で、パキスタン側に逃れてきたアル・カーイダを待ち受けるべく、パキスタン軍は独立以来初めて部族地域に進駐した。しかしアルカーイダやターリバーンの幹部はワジリスタンではなく、バローチスタ-ン州の州都クエッタに集結していた。2003年10月、パキスタン軍は南ワジリスタンに出撃し、2004年2月から大規模な軍事作戦を展開した。 2003年12月にはパルヴェーズ・ムシャラフ大統領を狙った暗殺未遂事件が発生した。2004年3月16日、南ワズィーリスターン管区(英語版)の中心地ワナ(英語版)にアルカーイダの幹部アイマン・ザワーヒリーが潜伏している情報を察知したパキスタン軍はワナを攻撃し、ターリバーンの間で激しい戦闘が起こった(ワナの戦い)。2004年4月、パキスタン政府は南ワジリスタンの3つの武装勢力と和平協定を結んだ。しかしこれらの協定は戦闘の停止には結びつかず、6月にはアメリカ軍が攻撃に参加し、ヘルファイアミサイルでアルカーイダとターリバーンの訓練キャンプを運営するネク・ムハンマド・ワズィール(英語版)を殺害している。ネクの勢力はバイトゥッラー・マフスードが引き継ぎ、戦闘を続けた[要出典]。 2005年3月、パキスタン軍は地元部族と和平合意し、地元部族が外国人勢力を立ち退かせるという約束をさせたが、約束はすぐに形骸化した。その後、パキスタン軍は逃亡した過激派を追って北ワジリスタンに進撃した。 ハリド・シェイク・モハメド(2003年パキスタン軍によりラーワルピンディーで逮捕)、アブー・ファラジュ・アッ=リービー(英語版)(2005年5月パキスタン軍によりペシャーワルの北にあるマルダーンで逮捕)、ハイサム・アル・イエメニ(2005年5月CIAの無人攻撃機により殺害)、2005年12月アブ・ハムザ・ラビア(2005年5月CIAの無人攻撃機により殺害)などアルカーイダのナンバー3が次々と逮捕・殺害された[要出典]。2006年1月13日、アメリカ軍はアフガニスタン国境に隣接するバージャウル管区(英語版)のダーマドーラ(英語版)への空爆(ダーマドーラ空爆(英語版))を開始した[要出典]。 2006年、過激派側が体制を立て直して軍に対する反撃を始め、対ゲリラ戦用の装備を所有していないパキスタン軍の損害が増大した。パキスタン軍は8万5千人の部隊を動員し、3年間で戦死432名・負傷1200名の激戦の末、800人のテロリストを殺害し、1400人を逮捕したことに満足し、2006年9月に北ワジリスタン和平合意を結んだ。また2007年3月、バージャウルにおけるターリバーンの指導者ファクリ・モハンマド(en:Faqir_Mohammed)とも和平合意を結んだ[要出典]。 北ワジリスタン合意は以下のような内容だった[要出典]。 パキスタン軍は、北ワズィーリスターンの部族地域でのインフラ再構築を援助する。 外国人武装勢力はパキスタンの領土を使用出来ない。 ターリバーンなどの武装勢力への支援は容認されない。パキスタン軍は北ワズィーリスターンに進駐し、監視にあたる。 パキスタン政府は、戦闘による犠牲者と財産の補償を部族指導者に行う。 しかし連邦直轄部族地域ではアフガニスタンから逃れてきたターリバーンの影響などにより、2004年頃から部族社会の統制に従わないイスラム原理主義思想を持つ過激派(パキスタン・ターリバーン)が育っており、イスラム的ではない住民や部族長を公開処刑にかけていた。また和平合意後にパキスタンからの越境攻撃は倍増した。一方、パキスタン国民はアメリカ合衆国の無人攻撃機「RQ-1 プレデター」による無断越境攻撃で被る民間人の被害に反感を募らせていた。
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