開廠、発展
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1939年(昭和14年)12月15日に、当時の宝飯郡豊川町、牛久保町、八幡村の2町1村にまたがる594,400坪(約200ヘクタール)の地に5番目の海軍工廠として開廠する。開廠当初は機銃部、火工部と総務部、会計部からなり従業員約1,500名であった。1940年(昭和15年)から南東側の土地を買収、敷地を更に拡張した。太平洋戦争では航空機が戦闘の主役の一つとなり、航空機用機銃と対空機銃の需要が高まり工廠は急速に発展した。1945年(昭和20年)2月時点での従業員は職員400名、工員10,000名、徴用工員40,000名、動員学徒6,000名、計56,400名となり東洋一の規模となった。また工廠周辺には電気、ガスの供給設備、男女工員寄宿舎をそれぞれ10カ所以上設置するなど、それらを含めると広さは330ヘクタールにも及んだ 工廠では主に機銃と弾丸、信管の製造を行い、工廠の南部2/5は機械工場が建てられ、北部3/5は火薬類の扱いや火工作業場とされた。1944年(昭和19年)度の生産実績は機銃が25mm17,602、13mm1,000、航空機用30mm510、20mm8,500、13mm8,250挺などとなっている。また機銃弾薬の生産量は1945年(昭和20年)4月頃で月産約450万発となっていた。 道路については愛知県道5号(姫街道(本坂通))が拡張され、豊橋市に抜ける愛知県道400号が築造された。また鉄道は工廠への引き込み線(豊川鉄道西豊川支線、1943年(昭和18年)に鉄道省に買収)が1942年(昭和17年)5月12日に、西豊川駅も開業して10月1日(推定)より工員輸送列車の運転を開始した。また工廠への通勤のために名古屋鉄道が1945年(昭和20年)1月27日(『鉄道要覧』によると2月18日)に国府駅 - 市役所駅(現諏訪町駅)間の軌道路線を開通させた。正門前には自転車置き場も用意されていた。この工廠の発展により1943年6月1日に国府町も含めた3町1村が合併して豊川市が成立する契機となった。
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