長崎電灯の設立
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長崎市においては、他の大多数の都市と同じく電気事業の方がガス事業よりも早くに始まった。その電気事業の端緒といえるのが、1886年(明治19年)8月に行われた市内の紡績工場「長崎紡績所」におけるアーク灯の試験的点灯である。諸説あるがこれが九州で最初に点灯した電灯だとされており、東京電灯によって日本で初めて電気の供給が事業化される1年前のできごとであった。長崎紡績所を経営する山口徳太郎はこの試験的点灯の結果をうけてエジソン式直流発電機を購入し、紡績所構内に電灯をつけるための本格的な自家発電を開始した。 さらに山口は、長崎紡績所での自家発電に留まらず長崎での電気供給事業の起業を図り、佐賀県の銀行家古賀祐一(第七十二国立銀行取締役)を誘って1888年(明治21年)8月に資本金7万円の「有限責任長崎電灯会社」設立を長崎県当局に出願した。この申請は間もなく認可され、山口らは翌1889年(明治22年)2月には発起人総会を開き3月より株式の募集を始めた。ところがこの山口・古賀派の起業計画に並行して、第十八国立銀行(後の十八銀行)頭取松田源五郎を中心とするグループが「長崎自調電灯会社」という電灯会社を1888年8月に設立した。事業領域が重複する両陣営は対立し、やがて中傷合戦を展開するまでに対立が先鋭化してしまい電気事業起業の動きは一時停滞した。 松田らのグループは大阪電灯に電気機器一切を発注しており、当時同社が販売代理店となっていたトムソン・ヒューストン・エレクトリック製の交流発電機を導入する計画であった。大阪電灯社長の土居通夫は起業計画が進まないことから山口・松田両陣営の仲裁に乗り出し、その結果両陣営合同で1889年8月に長崎電灯株式会社が設立された。資本金は10万円。初代社長には土居が自ら就任し、中立派の吉川安之助が支配人として経営実務を担当する体制とされたほか、山口・松田両陣営から同数ずつ取締役が選出された。なお、土居の社長在任期間は半年のみで年内に辞任している。その後は1893年(明治26年)3月になって支配人の吉川が専務となった(1895年6月まで在任)。 1890年(明治23年)3月、機械一式が長崎に到着した。しかしこのころになると不況の影響で山口徳太郎(長崎紡績所が破綻した)をはじめ離脱者が相次ぎ、8月には資本金を8万円に減資せざるを得なくなった。その上、市内の袋町(現・栄町)に発電所を置く予定であったが火力発電による煙害を忌避した町民により反対運動が起きたため中止となり、平地が少ない土地柄から用地の確保に難渋して用地買収は会社設立から3年経った1892年(明治35年)7月にまでずれ込んだ。
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