長崎のユダヤコミュニティー
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「日本のユダヤ人」の記事における「長崎のユダヤコミュニティー」の解説
長崎のコミュニティーのメンバーの多くは、五月法にはじまる反ユダヤ政策により帝政ロシアからの逃亡を余儀なくされた移民である。1896年9月、ハスケル・ゴールデンベルク R. H. Goldenberg とジークムント・D・レスナー S. D. Lessner により、長崎市梅香崎町にシナゴーグが設立された。実業家で、長崎のユダヤ人の指導者的存在でもあったレスナーは、1901年発足のユダヤ教博愛協会と、翌年発足の英国系ユダヤ人会両会の会長に就任し、さらに、会社経営者であったモリス・A・ギンズベルグ Morris A. Ginsburg の支援の下、新坂本国際墓地のユダヤ人区画開設にも尽力した。ゴールデンベルクは二人の男児と一人の女児のいる日本人女性と結婚し、夫人はユダヤ教へ改宗した。1904年、二人のキリスト教徒(日本人)が彼らの合意によりユダヤ教へ改宗した。国内外の貧しいユダヤ人のための慈善(ツェダーカー)組織がレスナーにより組織された。この時期の長崎の総人口が10万7422人であったのに対し、長崎在住のユダヤ人の人口は100人ほどであった。 1904年に開戦した日露戦争は、長崎在住のユダヤ人商人の多くがロシア人およびロシア艦隊への物資供給に関わっていたことから、長崎のユダヤ人コミュニティー衰退のきっかけとなった。また、長崎の国際貿易港としての地位低下や、1914年の第一次大戦開戦後、同盟国側のドイツ・オーストリア国籍を有したユダヤ人に対する日本政府による財産の没収、ユダヤ人の指導者的存在であったレスナーの急逝(1920年)により、長崎のユダヤ人コミュニティーは衰退の一途をたどり、長崎のシナゴークも1924年に役割を終えた。 参考文献:ジューイッシュ・クロニクル, June, 1904 "NAGASAKI" by Joseph Jacobs, Jewish Encyclopedia.com この記事にはパブリックドメインである次の文書本文が含まれる: Singer, Isidore; et al., eds. (1901–1906). The Jewish Encyclopedia. New York: Funk & Wagnalls. |title=は必須です。 (説明)Jewish Encyclopedia.com
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