長崎の合羽摺
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/10 02:49 UTC 版)
長崎絵でも、合羽摺が用いられた。 唐人は新年を祝う為、唐寺で摺られた「年画」を家屋に貼る風習があり、それが周辺に住む日本人にも受け入れられ、江戸や上方とは異なり、版本から一枚絵に展開する過程を必要としなかった。 現存する「長崎絵」最古のものは、寛保から寛延年間(1741-1751年)とされ、そのころから墨摺絵に手彩色することが始まり、天明年間(1781-1801年)頃に合羽摺が行われるようになる。 天保年間(1830-44年)初頭、渓斎英泉の門人である、磯野文斎が版元「大和屋」に婿入りし、後に彫師・摺師を江戸から招くことにより、錦絵が齎された。但し他の版元では、合羽摺版行が続いた。 画題は、江戸や上方と異なり、オランダ人や唐人の風貌や装束、彼らの風習、帆船や蒸気船、珍しい動物、出島図や唐人屋敷、唐寺など、長崎特有の異国情緒を催すものが描かれた。 1858年(安政5年)の日米修好通商条約締結後、外国人居留地の中心が横浜に移ることにより、1860年(安政7・万延元年)には横浜絵が隆盛し、文久年間(1861-64年)頃に、長崎絵の版行は終わったとされる。
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