長崎の抜荷取り締まり強化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 15:38 UTC 版)
「唐物抜荷事件」の記事における「長崎の抜荷取り締まり強化」の解説
幕府は抜荷横行の要因の一つであった長崎の取り締まり強化も図った。天保6年(1835年)閏7月、幕府は長崎奉行に「市中取締方」を命じ、実行役として戸川安清らを長崎に派遣する。10月に長崎に到着した戸川は早速長崎の役人たちに取り締まり強化を命じ、不測の事態に備え、長崎警備の大村藩、福岡藩に対し、約100名の増派を要請した。 天保6年(1835年)11月には、長崎近郊在住者2名を中国人商人と抜荷を行った容疑で逮捕し、裁判後、警告の意味を込めて唐人屋敷前で処刑した。12月には取り締まり強化に反発した中国人たちが騒乱を起こした。騒乱は番所や役所の破壊に至った。結局、福岡藩兵が唐人屋敷に突入し、関係者を拘束の上、大村藩に引き渡し入牢処分とした。 また抜荷の横行には日本側の諸役人や中国人の知人、友人らが中国製品を私的に受け取り、それらが転売されるという構図もあった。私的な贈与の範囲を超えて中国製品がやり取りされ、抜荷に繋がっていくのである。そこで天保7年(1836年)には規制、取り締まりを強化することとし、天保9年(1838年)8月には長崎の役人に対し綱紀粛正30か条が通達された。
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