長崎の改革
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17世紀後半、日本国内の銅の産出量低下、および銅貨の原料としての銅の国内需要の高まりによって、輸出用の銅が不足する事態が起きていた。銅の代わりに俵物を輸出品にしようという政策に対し、当時の老中松平定信は長崎会所の乱脈経営を批判し、貿易の削減と会所の改革を目指した。 天明8年(1788年)に、同僚の長崎奉行の末吉利隆が長崎在勤中に処罰を受けたため貿易業務は滞った。国内の銅不足とあいまって、貿易用の銅搬入が遅延し、そのために後任の水野は離日を控えたオランダ商館長に責められた。水野は、輸出銅が枯渇したのは長崎会所の乱脈経営にあると考え、会所改革のため翌寛政元年(1789年)にオランダ貿易に深く関与していた年番大通詞の堀門十郎と長崎会所調役の久松半右衛門を処分した。 寛政2年3月20日、水野は、銅の代わりに俵物の輸出を本格化しようと考える勘定奉行の久世広民と長崎の政策をめぐって衝突した。それを聞いていた松平定信は、その場ではどちらの意見が良いとは言わず、笑って席を立ったが、後日定信は水野を長崎奉行兼任の勘定奉行格に引き上げた。 松平定信の長崎貿易を縮減させる方針に沿って、長崎に着任した水野は、貿易額の規模を半分に、オランダ船の来航許可数を年2隻から1隻にし、オランダ商館長の江戸参府を4年に1回とする「半減商売令」を布告した。 水野は長崎の住民に対しては厳しい態度で臨んでおり、寛政2年9月に久松半右衛門を町年寄から退任させ、慣習通りに樟脳の輸出手続きを進めたオランダ通詞たちを11月に処罰する。翌12月には貿易半減令をしっかり翻訳しなかったとして、オランダ通詞たち8名が入牢や町預などの処罰を受けた。 その一方で、長崎の地役人の中から28人を長崎奉行所の直接に配下に置く措置を執った。これは、奉行の直接配下とすることで、実質的に町政・貿易の実務を担っていた地役人の取り込みを図ったと考えられている。 オランダ商館長にも改革を容認できないなら長崎住民を全て江戸に移住させると告げた。そして長崎市民に対して外国貿易に依存せず手工業や農業を身に付けるように言い、貿易に関する罪を犯した者にはそれが微罪であっても重罰を科した。長崎に蔵屋敷を置いた西国諸藩の長崎聞役に便宜を図ることも無くなり、佐賀藩の聞役は、更迭された末吉利隆の在勤中は事前に様々な案件について長崎奉行と内談できたのに、近年はそれができないと申し立てた。寛政2年の初頭ごろには、久世広民の屋敷の門に、「長崎奉行が水野忠通では長崎が立ちいかないし、また永井直廉では困る」という訴えもなされた。
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