長崎の改革とは? わかりやすく解説

長崎の改革

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/19 07:06 UTC 版)

水野忠通」の記事における「長崎の改革」の解説

17世紀後半日本国内産出低下、および銅貨原料として国内需要高まりによって、輸出用不足する事態起きていた。代わりに俵物輸出品にしようという政策対し当時老中松平定信長崎会所乱脈経営批判し貿易削減会所改革目指した。 天明8年1788年)に、同僚長崎奉行末吉利隆長崎在勤中に処罰受けたため貿易業務滞った国内不足とあいまって貿易用の搬入遅延し、そのために後任水野離日控えたオランダ商館長責められた。水野は、輸出枯渇したのは長崎会所乱脈経営にあると考え会所改革のため翌寛政元年1789年)にオランダ貿易深く関与していた年番大通詞の堀門十郎長崎会所調役久松右衛門処分した寛政2年3月20日水野は、代わりに俵物輸出本格化しようと考え勘定奉行久世広民長崎政策めぐって衝突した。それを聞いていた松平定信は、その場ではどちらの意見良いとは言わず笑って席を立ったが、後日定信水野長崎奉行兼任勘定奉行格に引き上げた松平定信長崎貿易縮減させる方針沿って長崎着任した水野は、貿易額規模半分に、オランダ船の来航許可数を年2隻から1隻にし、オランダ商館長の江戸参府4年1回とする「半減商売令」を布告した水野長崎住民に対して厳し態度臨んでおり、寛政2年9月久松右衛門町年寄から退任させ、慣習通り樟脳輸出手続き進めたオランダ通詞たちを11月処罰する。翌12月には貿易半減令をしっかり翻訳しなかったとして、オランダ通詞たち8名が入牢町預などの処罰受けた。 その一方で長崎地役人の中から28人を長崎奉行所直接配下に置く措置を執った。これは、奉行直接配下とすることで、実質的に町政貿易実務担っていた地役人取り込み図った考えられている。 オランダ商館長にも改革容認できないなら長崎住民全て江戸移住させる告げた。そして長崎市に対して外国貿易依存せず手工業農業身に付けるように言い貿易に関する罪を犯した者にはそれが微罪であっても重罰科した長崎蔵屋敷置いた西国諸藩長崎聞役便宜を図ることも無くなり佐賀藩聞役は、更迭され末吉利隆在勤中は事前に様々な案件について長崎奉行内談できたのに、近年はそれができない申し立てた寛政2年初頭ごろには、久世広民屋敷の門に、「長崎奉行水野忠通では長崎が立ちいかないし、また永井直廉では困る」という訴えなされた

※この「長崎の改革」の解説は、「水野忠通」の解説の一部です。
「長崎の改革」を含む「水野忠通」の記事については、「水野忠通」の概要を参照ください。

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