金の興亡と満州への改称
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12世紀はじめ完顔部の阿骨打が出て女真の統一を進め、1115年に遼から自立して金を建国した。金は、遼、北宋を滅ぼし中国の北半分を支配した。金の時代に、漢字や契丹文字の影響で女真文字をつくったが、元・明の間に忘れ去られた。やがて、金がモンゴル帝国に滅亡させられた際には、故地を既にモンゴル軍に奪われて中原に取り残された大勢の女真がモンゴル人と漢人双方からの攻撃を受けて大半が歴史から姿を消し、中原から女真の集団は消滅した。 一方、故地に残って集団を保っていた女真は、モンゴル、元に服属することになった。元代の女真は満洲から朝鮮半島北部にかけて居住して元の支配を受けており、元の日本侵攻(元寇)にも女真兵が加わっている。 元の滅亡後、女真はモンゴルから離れ、小集団ごとに明に服属した。また、朝鮮半島では高麗に変わって登場した李氏朝鮮が世宗の時代に朝鮮半島北部の女真居住地域を征伐し、平安道、咸鏡道に組み込まれ、半島北部からは女真人の姿は失われていった。15世紀から16世紀にかけて、満洲最南部の朝鮮に接する鴨緑江や豆満江流域の女真人たちは、たびたび李氏朝鮮に反撃を仕掛け、豆満江南岸地域の争奪を繰り返した。二度にわたる胡乱で、現在の北朝鮮北部に居た女真人は新たに入植して来ていた朝鮮人と共に中国に連行され、当地は無人の地となった。跡地には朝鮮人が入って来て、完全に朝鮮化された。 明は女真を部族ごとに衛所制によって編成し、部族長に官職と朝貢の権利を与えて間接統治を行った。明代後半には、女真は大きく2つのまとまった集団である建州女直(自称は「マンジュ」(満洲))5部・海西女直(自称は「フルン」)4部と、それより東方に住んでまとまりの弱い野人女直(この当時の野人女直は女真族の集団の中では最も勇猛だった)と呼ばれる4部からなっていた。16世紀末に建州女直から出たヌルハチはこれら13部族を統一して、1616年に後金を建てた。 1635年にホンタイジがモンゴルのチャハル部を下して元の玉璽を入手すると、漢字としては蔑称のニュアンスを含む上に、モンゴル高原の契丹に従属していた当時の女真の民族名を嫌い、1635年11月22日(天聡9年十月庚寅)に民族名を満洲族(満洲民族の項参照)に改めさせた。また、それまでは女真族王朝である金の後裔として「後金」と名乗っていたが、民族名の変更に伴って翌1636年に国号も「清」に改めた。
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