遺跡、阮朝歴代皇帝の陵墓とは? わかりやすく解説

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遺跡、阮朝歴代皇帝の陵墓

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 07:53 UTC 版)

フエ」の記事における「遺跡、阮朝歴代皇帝の陵墓」の解説

フエ内部郊外には、多く遺跡存在する旧市街対岸存在する虎園は直径約20mのレンガ造り円形闘技場で、チャム族遺跡の上建てられている。虎園は1831年第2代皇帝明命帝ミンマン帝、在位1819年 - 1840年)の命によって造営されその中では象と虎の戦い催されていた。虎園で戦う象は権力あるいは正義、虎は敵対者象徴であり、虎の牙前足の爪はあらかじめ抜かれて象に有利な戦いになるように仕組まれていた。虎園が建てられ理由について定説はなく、儒教思想による皇帝権力誇示キン族による先住民支配強調など理由として挙げられている。 町の郊外の南には南郊壇、フオンの上流の丘陵には阮朝歴代皇帝陵墓建てられている。元来皇帝陵墓敷地面積明確にされていなかったが、阮朝最後の皇帝である保大帝によってそれぞれの陵墓範囲定められた。 明命帝の廟は公園とされ、市民憩いの場として親しまれている。存命中から建設計画立てられていた明命帝の廟は、自然の地形活用した構造になっている明命帝の廟には華美な装飾施されており、中庭に並ぶ象、馬、官吏石像は、死者霊魂を守るために作られた。陵墓敷地には明命帝霊廟のほかに、皇帝皇后位牌納められた崇恩殿などの建物ハス池などが設けられている。雨季には敷地内の池に流れ込むため、水門使って池の水量調節している。洪水台風の際にしばしば冠水し外周壁敷地内マツ被害受けた明命帝霊廟小高いの上建てられているが、遺体陵墓埋葬されておらず、実際埋葬場所明らかになっていない嗣徳帝霊廟は元は別荘として設計され中国様式建築で、その死後墓所として改築された。敷地中央には大きな湖があり、小船乗りつけ場もあることから、在位中に舟遊び釣りなど使われていたとされる啓定帝の廟の意匠にはバロック様式影響見られ、廟の内部の壁と天井磁器ガラス装飾されている。バロック様式だけでなく、仏寺ヒンドゥー寺院キリスト教会特色見られ東洋と西洋建築様式混合した建物になっている内部には金箔が貼られた啓定帝銅像置かれ、像の約9m下に遺体安置されている。 紹治帝(ティエウチ帝、在位1840年 - 1847年)の廟は小さく紹治帝本人希望によって塀は立てられていない嘉隆帝陵墓荒廃した状態に置かれている。他の皇帝の廟と異なり自然の地形生かされ構成になっている嘉隆帝の廟は最も南に位置し、他の陵墓のおよそ5倍の面積有する陵墓区画3つ分けることができ、手前区域には嘉隆帝事績記した石碑中央の区域には位牌形見の品が置かれ、最も奥の区域遺体埋葬されている。

※この「遺跡、阮朝歴代皇帝の陵墓」の解説は、「フエ」の解説の一部です。
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