遺伝子の乗り物・自然の手先
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 10:09 UTC 版)
「人生の意義」の記事における「遺伝子の乗り物・自然の手先」の解説
「遺伝子の乗り物」および「神は死んだ」も参照 チャールズ・ダーウィンたちによれば、自然および「自然の手先」である生物(人間)に、「善」や「悪」のような倫理的価値は全く無い。自然も生物も、ただ科学的に「あるがゆえにある」だけであり、この認識はフリードリヒ・ニーチェたちが広めた思想にも共通している。外科医・科学者のロバート・ウィンストンによれば 自然淘汰のプロセスに倫理的価値があるわけではない。自然淘汰は、その本質から言って、倫理的に良いも悪いもなく、ランダムな突然変異にもとづくプロセスである。 人間は機械的な自然淘汰の産物であり、そのためニーチェ流の思想は人間を「自然の手先」と呼んだ。これは、進化生物学者リチャード・ドーキンスが、人間を含め生物を「遺伝子の乗り物」と解説したことに類似している。 哲学者の仲島陽一が言うには、ニーチェは医療科学や自然科学を引き合いに出すことで自らの主張に「根拠付け」しようとしており、例えばニーチェは次のようにも記している。 医師であること、情け容赦なくやること、メスを振るうこと、 ―― これぞ私達のなすべきことである。 ニーチェによると、生の本質とは「力への意志」である。ニーチェが言うには、人生にとって重要なのは、「神」や「彼岸」や「真の世界」ではなく、「健康」や「栄養、住居、精神の食餌、病気の治療、清潔、天気の問題」である。 「神」という概念は、生の反対概念として発明された。 … 「彼岸」や「真の世界」という概念がでっち上げられたのは、存在している<<唯一の>>世界を無価値にするためである。――われわれの地上の現実のための目標や理性や使命が存在する余地をなくすためである。 「魂」や「霊」や「精神」という概念が、それになんと「不滅の魂」という概念までがでっち上げられたのは、からだを軽蔑するためである。からだを病気に――「神聖」に――するためである。人生で真剣に考えられるべきすべてのこと、つまり栄養、住居、精神の食餌、病気の治療、清潔、天気の問題を、身の毛もよだつほど軽率に扱わせるためである! 健康のかわりに「魂の平安」が持ち出されるが、――それは、懺悔の痙攣と救済のヒステリーを往復する周期性痴呆症なのだ! あなたがね、大きな使命を果たすよう定められているのなら、なおさらあなた自身、傷つくでしょう。 答えはこうだ。こういう小さなこと――つまり栄養のことや、土地のことや、気候のことや、保養のことや、それから自分欲のアラを探すことですが――こういうことこそ、これまで重要だと思われてきたどんなことよりも、はるかに重要なんですよ。まさにこの点において、<<学習の転換>>をはじめる必要があるんです。 これまで人類が真剣に検討してきたことは、現実ですらないんですよ。たんなる想像にすぎない。もっと厳密に言うとですね、病気の人間たちの、もっとも深い意味で有害な人間たちの、劣悪な本能から生まれた<<嘘>>なんですよ。――「神」、「魂」、「徳」、「罪」、「彼岸」、「真理」、「永遠の命」などの概念は、みんな嘘なんです。 教育学者・教育哲学者の菱刈晃夫によると、ニーチェ、マルキ・ド・サド、ショーペンハウアー等やその流れを継ぐ思想家たちの共通点は、自然法則や自然科学を重視して、信仰や伝統を批判する点である。
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