進歩ブロックの形成
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「立憲民主党 (ロシア)」の記事における「進歩ブロックの形成」の解説
1912年の第4国会選挙ではオクチャブリストが議席を減らし、右翼勢力や進歩党(ロシア語版、英語版)などが躍進したため、政局が不安定化した。こうしたなか、党首ミリュコーフは党内の多数の支持を得て、政府に対してより急進的な要求を行うことを決めた。同年11月15日に開かれた国会において、カデットは普通選挙権や出版・結社・人身の自由を定めた法案を提出した。さらに翌年の1913年1月末には、民主化の実現まで、「権力にたいして和解しがたい反対派」となるべきであるというミリュコーフの演説が行われている。 この頃、カデット右派の指導者ヴァシーリー・マクラコフ(ロシア語版、英語版)は、左派オクチャブリスト・進歩党との連携によって国会内に「進歩ブロック」という大勢力を形成することを模索した。この構想は1913年時点では実現しなかった。また、1914年の第一次世界大戦の開戦とともに、カデットは国内政治よりも戦争を優先する立場をとって政府批判を緩め、また帝政政府による動員体制の構築に協力している。 ところが、政府はますます国会を軽視するようになり、これに対する反発から国会内ではふたたび自由主義勢力の結集が進んだ。そして、1915年8月25日にカデット・オクチャブリストその他の諸勢力からなる「進歩ブロック」が実現した。これには全国会議員422人中、325人の議員が参加したという。この「進歩ブロック」においては、オクチャブリストの分裂の影響で、カデットが主導権を握ることに成功した。進歩ブロックの実質的な指導者もカデットの党首ミリュコーフとなった。進歩ブロックは政府に国会との協調を求め、国民の信任を得られる内閣(信任内閣)の実現を要請した。 しかし、帝政政府は国会の無期限停会をもってこれに応えた。党内の左派は進歩ブロックからの脱退と左翼政党との提携を主張したが、これは少数意見にとどまった。カデットは進歩ブロックに留まったまま、政府が国会を再開するのを待った。しかし、マンデリュシュタム(ロシア語版)やオブニンスキーらモスクワの党グループ左派は、ミリュコーフに対して待機戦術を放棄し、より急進的な闘争を選ぶように強く迫った。 1916年2月18日から21日にかけて、第6回党大会が開かれた。国内では第一次世界大戦におけるロシアの敗勢や皇帝の不合理な統治の継続などの問題が生じており、党大会では左派と右派がさらに激しく争った。ミリュコーフら党の主流派は、政変が戦争に悪影響を及ぼすことを懸念し、政府との全面対決には消極的であった。その一方で、党幹部のアンドレイ・シンガリョフ(ロシア語版、英語版)が「国民の気分は近い将来を考えるのがこわいくらいのものである。国民の苦悩と憤懣は限界に来ている。(中略)われわれは極左派と完全に遊離するところまでゆくべきではない」と演説した。この演説の結果、左翼政党との連携も視野に入れつつ、政府との闘争を続けるという方針が決議される。 その後、カデットは政府との対決姿勢を強め、同年11月に開かれた国会において、ついにミリュコーフはいわゆる「爆弾演説」を行い、政府を公然と批判した。この演説において、ミリュコーフはボリス・スチュルメル首相や怪僧ラスプーチンらをドイツの手先だとして激しく非難した。そして、政府の数々の失策について「これは愚かさか、または裏切りか?」と他の議員たちに問いかけたという。議員たちは「愚行だ!」「裏切りだ!」「その両方だ!」と応じた。演説の内容は全ロシアに広まり、反政府運動の活発化に大きな役割を果たしたとされる。
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