近現代チベットにおける歴代中国政権による実効支配の変遷
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雍正のチベット分割(1724-32)以降、ガンデンポタンはチベットの北部(アムド地方)、東部(カム地方の東部・南部)に対する統治権を失った。 チベット東部のうち、四川省に分配されていたニャロン地方の領主グンポナムギャルが近隣の領主に対する征服活動を展開。ガンデンポタンによる鎮圧。清朝、ニャロン地方をガンデンポタンの管轄下に。近隣のチベット人諸侯に対するガンデンポタンの影響力増大。 四川総督趙爾豊によるチベット侵攻(1905-10)。四川盆地を進発して、カム地方の諸侯を順次制圧、さらにディチュ河を越えてガンデンポタン領内に侵入、1910年ラサを制圧。ダライ・ラマ13世はインドに脱出。 1911年、辛亥革命の勃発。ダライラマ十三世はチベットへ帰還。チベット軍の反撃開始。 1918-19年、チベット軍、一時的にディチュ河を越え、タルツェド(康定)に迫る。 1932-33年、チベット軍、ジェクンド(玉樹)の奪回を目指し進撃するも、中国の青海・四川連合軍に敗北。 1949年、アムド地方を掌握していた青海省長の馬歩芳が台湾へ脱出、カム地方の東部を掌握していた劉文輝が共産党に降伏、アムド地方とカム地方の東部が中国共産党の支配下に入る。 1950年、中国人民解放軍がガンデンポタンの勢力圏であるカム地方西部に侵入、チャムド(昌都)を占領する(「昌都戦役」)。 1951年、中国人民解放軍、新疆方面、ジェクンド方面(青海)、チャムド方面の3方面から中央チベットにむけて進軍、北京では十七か条協定の締結、ラサ、無血開城。中国はこれを「チベット平和解放(西蔵和平解放)」と称する。 1955年、アムド・カム地方で「民主改革」の開始。 1956年、アムド・カム地方で抗中蜂起始まる(チベット動乱の勃発) 1957年 - アムド・カムで敗北した各地の抗中ゲリラ、ガンデンポタン管轄下の「西蔵」に退避、抗中ゲリラの統一組織チュシ・ガンドゥクを結成。 1959年3月、ラサ市民の蜂起。ダライラマ14世、ガンデンポタン、チベットを脱出。中国国務院は「西蔵地方政府」(ガンデンポタンを指す)の廃止を布告、ガンデンポタンはこれに対抗して「チベット臨時政府の樹立」を宣言の後、国境を越えインドに亡命。 1965年、中国、チベットの「西蔵」部分を領域とする「チベット自治区(西蔵自治区)」を発足させる。 1974年、「チュシ・ガンドゥク」武装解除。
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