十七か条協定の締結
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/04/16 13:17 UTC 版)
「チベットの歴史 (現代)」の記事における「十七か条協定の締結」の解説
1950年に中国人民解放軍が侵攻(チベット侵攻)、1951年には中華人民共和国とチベット政府「ガンデンポタン」は「中央人民政府と西藏地方政府の西藏平和解放に関する協議」(いわゆる「十七か条協定」)を締結し、チベット全域が中華人民共和国の実効統治下に組み入れられた。 チベット政府は辛亥革命以来、チベット全域の領有と統合を主張していた(実際には、チベットの西南部3分の1程度を占める「西蔵」部分しか実効支配下におくことができなかった)が、十七か条協定は交渉当事者としてのガンデンポタンを「西蔵地方政府」と呼称している。すなわち、この協定は、チベット国そのものの独立性を否定するとともに、ガンデンポタンによる全チベットの統合をも拒否し、チベットの一部分「西蔵」の統治機関としての地位しかみとめないことを打ち出すものであった。 この協定では、ひきつづきガンデンポタンによる「西蔵」統治(ダライ・ラマが、宗教と政治の両方の指導者として戴く体制)の継続をみとめ、「西蔵」においては「改革を強要しない」ことを明示するものであったが、「西蔵」の領域の外部におかれたチベット東北部のアムド地方(青海省、甘粛省西南部、四川省西北部)や、チベット東部のカム地方東部(四川省西部、雲南省西北部)などでは、1955年、「民主改革」や「社会主義改造」が開始された。
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