近現代の武蔵野
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 14:50 UTC 版)
雑木林に囲まれた哀愁漂う武蔵野の風景像は国木田以外にも徳富蘆花などの文士によって形成され、国木田の『武蔵野』が教科書に採用されることでその影響力はさらに強固なものとなった。1910年代以降には、新宿の映画館武蔵野館(1920年開業)のように、いろいろな事物で「武蔵野」をキャッチコピーに含ませたり冠にすることが流行し、今日で言う地域ブランドを形成していった。1911年には武蔵野鉄道が開業し、武蔵野の開発と観光化が加速していったが、1921年に寺田寅彦は東武東上線を使って写生旅行を行い、古き良き武蔵野の面影を成増に見出した経験を随筆『写生紀行』で詳細に語っている。 戦後の復興期、東京郊外では①畑地、②山林・原野、③水田の順に宅地化がいっそう進行した。東京緑地計画により戦前に多数買収された農地も、農地改革によりその大半を失った。そのような中でたとえば1960年代に玉川上水・五日市街道ぞいの街道屋敷林やいくつかの丘陵地などが郷土風景の保護を目的として風致地区に指定されるような事例もあったが、全体として都市化・スプロール化の進行は防ぎようもなく、現在では一部の公園や農地、風致地区などの緑地を除けば、市街地が隙間なく東京郊外の武蔵野地域にひろがっている。 いっぽうで、各種燃料・肥料の発達した現代では、薪炭や落ち葉堆肥の確保のために雑木林に入るということがなくなり、特段の意図をもって継続的な手入れを行わないかぎり、雑木林を維持することはできなくなってきている。 現在、東京都や埼玉県下で自然に親しむような取り組みを行う場合に、「武蔵野」をキーワードに行われる場合がある。また「武蔵野の自然」「武蔵野の森」といった言葉が美称として使われることもある。“武蔵野の原野”の記憶は遠く忘れられて久しいが、国木田の唱えた“武蔵野の雑木林”のイメージはいまでも生きながらえており、そのような植生を再現しようという動きもあるが、しかしながら、本物の“武蔵野特有の雑木林”を実際に目にする機会が失われるにつれて、再現される植栽の樹種などは武蔵野本来の固有性を失い、ごく平凡な二次林と変わらないものに置き換わりつつあるという。
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