辞任した教皇の一覧
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/09/01 06:59 UTC 版)
在位期間肖像画教皇名個人名辞任理由備考典拠の不確かな辞任 230年7月21日– 235年9月28日(5年+) ポンティアヌス ポンティアヌス ローマ帝国による追放 Liberian Catalogueにのみ辞任について記述されている。同文献には辞任が235年9月28日のことだとされており、これは教皇史の中で年月日が明確にされている最初の事項である。 296年6月30日– 304年4月1日(7年+) マルケリヌス マルケリヌス ローマ帝国皇帝ディオクレティアヌスによる、当時の反社会的勢力であるキリスト教の規制政策の際、異教の神々に供物を捧げ堕落したとされる 辞任がLiberian Catalogueに記述されている。 352年5月17日– 366年9月24日(14年+) リベリウス リベリウス ローマ帝国皇帝コンスタンティウス2世により追放される 彼の辞任は後釜のフェリクス2世との関係が推測されている一方で、Liber Pontificalisでは追放されて以降もリベリウスが正当な教皇であったとされている。 1004年1月– 1009年7月(5年+) ヨハネス18世 ファサニウス 不明 一冊の教皇一覧にのみその辞任が記録されている 1045年1月20日– 1045年2月10日(1か月) シルウェステル3世 ジョヴァンニ・デイ・クレシェンツィ=オッタヴィアーニ ベネディクトゥス9世の再任により更迭される 彼は決して教皇ではなく対立教皇であったと主張する者もいる。しかしながらヴァチカン公式の教皇一覧には彼が記載されており、ベネディクト9世が自身の辞任およびシルウェステル3世の選出の有効性を認めていたことを前提としている。後にシルウェステル3世は教皇就任以前の司教位に復し、自身の教皇辞任を受け入れていたと思われる。 辞任が教会法に制定される以前 964年5月22日– 964年6月23日(1か月) ベネディクトゥス5世 ベネディクト・グランマティクス 神聖ローマ帝国皇帝オットー1世により更迭される レオ8世が好まれて更迭され、レオ8世が合法な教皇となった。ベネディクトゥス5世の辞任は合法であったとされる。助祭の地位にとどまった。ハンブルク・ブレーメン大司教アダルダグのもとで残りの生涯を過ごした。 1032年10月–1044年9月、1045年4月–1045年5月、および1047年1月–1048年7月 ベネディクトゥス9世 トゥスクルム伯テオピュラクトゥス3世 1度目の在位の際は一時的に辞任し、2度目の在位の際は複数のスキャンダルの噂が立った後に賄賂を糾弾され辞任し、3度目の在位の際も辞任した。 教皇のorderingにおいて認識された最初の辞任である。彼は1032年から1048年の間に3度教皇に就任した。彼は最も若くして教皇に就任した人物であり、複数回教皇に就任した人物、教皇職を売り渡した人物でもある。 1045年4月または5月– 1046年12月20日(1年+) グレゴリウス6世 ヨハネス・グラティアヌス 賄賂によってベネディクト9世を辞任させた、いわゆる聖職売買を糾弾されたため ストリ教会会議で辞任した 辞任が教会法に制定されて以降 1294年7月5日– 1294年12月13日(161日) ケレスティヌス5世、O.S.B. ピエトロ・ダ・モローネ 教皇位への適性を欠いたため 行政の経験を欠いていたため、ケレスティヌスは世俗の政治家をコントロール下に置くことに失敗した。彼は教会を守るために辞任した。彼はカノン法上に教皇辞任の規定を置いた最初の教皇である。 1406年11月30日– 1415年7月4日(7000800000000000000♠8年 + 216日) グレゴリウス12世 アンジェロ・コレル 教会大分裂の収束のため 対立教皇ヨハネス23世が招集したコンスタンツ公会議で罷免された。 2005年4月19日– 2013年2月28日(7000700000000000000♠7年 + 315日) ベネディクト16世 ヨゼフ・ラッツィンガー 肉体的衰退/高齢 数百年ぶりの辞任であり、自らの意思によって退位した。退位以降は名誉教皇と呼ばれることとなった。1970年に宣言された『イングラヴェシェンテム・エータテム』の規定に基づき、司祭、司教、枢機卿の強制的な辞職年齢が制定された。
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