軍事に関する影響
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2014/11/15 12:19 UTC 版)
米英戦争で、アメリカ軍の兵士と水兵は2,260名が戦死した。戦費は約2億ドルに達した。アメリカもイギリスも軍事的な利点を得ることは無かったが、アメリカは間接的に得るものがあった。 ウィンフィールド・スコット将軍によってアメリカ陸軍士官の職業意識が強調され、特にウェストポイントの陸軍士官学校における士官の訓練は、意義ある軍隊の発展となった。この新しい職業意識は後の米墨戦争 (1846-1848)で顕著となった。アメリカによるテキサス併合の後、マニフェスト・デスティニーという言葉がアメリカの拡張主義と軍隊の誇りを喧伝する政治的な言葉として広く使われるようになった。米英戦争では領土拡大を齎さなかったものの、この事実がイギリス領北アメリカへの拡張に関してその後何十年もの間政治的議論の的となった。 その後の発展に就いては、アメリカはその防衛を民兵に頼ることを公式に止めた。更に当時ウエストポイントを支配していたアメリカ陸軍工兵司令部が戦争中のイギリス軍の攻撃に対する反応としてニューオーリンズの要塞化工事を始めた。この努力が多くの川の治水工事にも発展し、特に1840年代と1850年代はP・G・T・ボーリガード将軍のもとで進んだ。工兵隊はミシシッピ川や他の川の工事では今でも権威であり続けている。 後に学者達は、米英戦争のアメリカの戦略や戦術について疑問を投げかけた。その明白な結果や、そもそも戦争を始めた時の知恵についてである。しかし、当時のアメリカ人には、海軍の印象的な勝利やニューオーリンズでのアンドリュー・ジャクソンの勝利がモンロー時代に引き継がれる「好感情」の蓄積を創った。 1823年のモンロー主義は、実際には長い大統領演説の中のほんの数句にすぎないが、アメリカはヨーロッパの内情に巻き込まれることはなく、アメリカに対するヨーロッパの干渉を認めないと宣言した。他の国に与えたその直接の影響は大したものではないが、アメリカ市民に与えた影響は測り知れない。さらに新世界から旧世界に警告を放ったその自信に満ちた論調は、国中を席捲した国民主義的な気分をうまく反映した。 スペイン領フロリダに逃亡したクリーク族インディアンはそこのセミノールに合流した。アメリカが1819年に東フロリダを購入した後も長いセミノール戦争に続いた。
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