趙氏の出自
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趙匡胤自身は遠祖は涿郡蠡吾県の人である前漢の名臣の趙広漢の末裔を自称していたが、このことは早くから疑問視されていた。例えば江戸時代の林羅山は『寛永諸家系図伝』序において、「蜀漢の劉備が中山靖王(劉勝)の子孫だといったり、趙匡胤が趙広漢の末裔だといったりしているのは途中の系図が切れていて疑わしい。戦国武将の系図にも同様の例が多い」とわざわざ引き合いに出しているほどである。 宋の建国者の趙氏は、南方系の出自とされていたが、近年の学術研究では疑問視されており、チュルク系民族突厥である可能性が指摘されている。 加藤徹は、趙匡胤の父の趙弘殷は突厥沙陀部の国家である後唐の近衛軍の将官であり、世襲軍人だった趙氏一族に突厥沙陀部の血が混ざっていた可能性は高いと述べている。 楊海英は、「960年、後周の趙匡胤が帝位につき、国号宋。趙一族もテュルク系出自との説あり」と述べている。 岡田英弘は、「北宋は北族の王朝」として、趙匡胤は涿郡(河北省保定市、北京市の南)の人であるが、涿郡は唐はソグド人やチュルク系人や契丹が多く住む外国人住地であり、例えば安禄山は営州の人で、母はチュルク系人であり、范陽郡(漢・隋の涿郡)を根拠に唐に反乱を起こしたが、趙匡胤の父の趙弘殷は後唐の荘宗の親衛隊出身であり、後周の世宗の親衛隊長になったが、趙匡胤は後周の世宗の親衛隊長から恭帝に代わり宋の皇帝となったように、沙陀トルコ人の後唐の親衛隊、或いは同じように出自に問題のある後周の親衛隊長という点からして、趙氏は北族の出身であろうと述べている。 宇山卓栄は、「王朝(宋) 建国者(趙匡胤) 氏族名(趙氏) 民族(トルコ人沙陀族) 建国時期(10世紀)」「宋王朝の建国者、趙匡胤。トルコ人沙陀族の出身とされる」「宋王朝は民族主義を政治的に利用し、政権の求心力を高めようとしました。ところが、この宋王朝は実は漢人のつくった王朝ではありません。トルコ人『沙陀族』のつくった王朝です。宋王朝は、文治主義という非軍事外交で異民族と宥和していく政策で知られるため、漢人の王朝と誤解されることが多いのですが、実はそうではありません。唐王朝が滅んだ後、その混乱の隙を突いて、923年、トルコ人(突厥)の李存勗が後唐を建国します。宋王朝の建国者の趙匡胤ら趙氏一族は、後唐の近衛軍の将官や武将でした。トルコ人王朝の後唐の要職にあった趙氏一族もやはり、トルコ人であるとされます。また、趙匡胤は騎射に秀でており、暴れ馬を乗りこなしていたとするエピソードもあって、トルコ人遊牧民の血統を継いでいると見られます。では、トルコ人王朝の宋が、なぜ漢人の中華思想を奨励したのでしょうか。趙匡胤は自らの出自を隠し、自分は前漢の名臣の趙広漢の末裔であると称し、漢人であると主張していました。これについて、江戸時代の日本の儒学者の林羅山は『蜀の劉備が中山靖王の末裔と称したり、趙匡胤が趙広漢の末裔だと称したりすることは、系図が切れているため疑わしい。同様に、戦国武将たちが自分は貴人の末裔だと称していたことも疑わしい』と述べています。趙匡胤の主張には何の根拠もありませんでしたが、自分が漢人であると主張することにより、多数派の漢人の共感を得ようとしました」と述べている。
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趙氏の出自
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趙匡胤自身は遠祖は涿郡蠡吾県の人である前漢の名臣の趙広漢の末裔を自称していたが、このことは早くから疑問視されていた。例えば日本の江戸時代の林羅山は『寛永諸家系図伝』序において、「蜀漢の劉備が中山靖王(劉勝)の子孫だといったり、趙匡胤が趙広漢の末裔だといったりしているのは途中の系図が切れていて疑わしい。戦国武将の系図にも同様の例が多い」とわざわざ引き合いに出しているほどである。 加藤徹は、趙匡胤の父の趙弘殷は突厥沙陀部の国家である後唐の近衛軍の将官であり、世襲軍人だった趙氏一族に突厥沙陀部の血が混ざっていた可能性は高いと述べている。 楊海英は、「960年、後周の趙匡胤が帝位につき、国号宋。趙氏一族もテュルク系出自との説あり」と述べている。 岡田英弘は、「北宋は北族の王朝」として、趙匡胤は涿郡(河北省保定市、北京市の南)の人であるが、涿郡は唐はソグド人、チュルク系人、契丹人などが多く住む外国人住地であり、安禄山は営州の人で、母はチュルク系人であり、范陽郡(漢・隋の涿郡)を根拠に唐に反乱を起こしたが、趙匡胤の父の趙弘殷は後唐の荘宗の親衛隊出身であり、後周の世宗の親衛隊長になったが、趙匡胤は後周の世宗の親衛隊長から恭帝に代わり宋の皇帝となったように、突厥沙陀人の後唐の親衛隊あるいは同様に出自に問題のある後周の親衛隊長という点からして、趙氏は北族の出身であろうと述べている。 宇山卓栄は、「王朝(宋) 建国者(趙匡胤) 、氏族名(趙氏) 、民族(突厥沙陀部) 、建国時期(10世紀)」「宋王朝の建国者、趙匡胤。突厥沙陀族の出身とされる」「宋王朝は民族主義を政治的に利用し、政権の求心力を高めようとしました。ところが、この宋王朝は実は漢人のつくった王朝ではありません。テュルク系「突厥沙陀族」のつくった王朝です。宋王朝は、文治主義という非軍事外交で異民族と宥和していく政策で知られるため、漢人の王朝と誤解されることが多いのですが、実はそうではありません。唐王朝が滅んだ後、その混乱の隙を突いて、923年、テュルク系人(突厥沙陀部)の李存勗が後唐を建国します。宋王朝の建国者の趙匡胤ら趙氏一族は、後唐の近衛軍の将官や武将でした。テュルク系人王朝の後唐の要職にあった趙氏一族もやはり、テュルク系人であるとされます。また、趙匡胤は騎射に秀でており、暴れ馬を乗りこなしていたとするエピソードもあって、テュルク系遊牧民の血統を継いでいると見られます。では、テュルク系王朝の宋が、なぜ漢人の中華思想を奨励したのでしょうか。趙匡胤は自らの出自を隠し、自分は前漢の名臣の趙広漢の末裔であると称し、漢人であると主張していました。これについて、江戸時代の日本の儒学者の林羅山は『蜀漢の劉備が中山靖王の末裔と称したり、趙匡胤が趙広漢の末裔だと称したりすることは、系図が切れているため疑わしい。同様に、戦国武将たちが自分は貴人の末裔だと称していたことも疑わしい』と述べています。趙匡胤の主張には何の根拠もありませんでしたが、自分が漢人であると主張することにより、多数派の漢人の共感を得ようとしました」と述べている。
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