趙氏の出自とは? わかりやすく解説

趙氏の出自

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 17:19 UTC 版)

宋 (王朝)」の記事における「趙氏の出自」の解説

趙匡胤自身遠祖涿郡蠡吾県の人である前漢名臣趙広漢末裔自称していたが、このことは早くから疑問視されていた。例え江戸時代林羅山は『寛永諸家系図伝』序において、「蜀漢劉備中山靖王劉勝の子孫だといったり、趙匡胤趙広漢末裔だといったりしているのは途中系図切れていて疑わしい戦国武将系図にも同様の例が多い」とわざわざ引き合い出しているほどである。 宋の建国者の趙氏は、南方系の出自とされていたが、近年の学術研究では疑問視されており、チュルク系民族突厥である可能性指摘されている。 加藤徹は、趙匡胤の父の趙弘殷は突厥沙陀部国家である後唐近衛軍将官であり、世襲軍人だった趙氏一族突厥沙陀部の血が混ざっていた可能性は高いと述べている。 楊海英は、「960年後周趙匡胤帝位につき、国号宋。趙一族テュルク系出自との説あり」と述べている。 岡田英弘は、「北宋は北族の王朝」として、趙匡胤涿郡河北省保定市北京市の南)の人であるが、涿郡は唐はソグド人チュルク系人や契丹多く住む外国人住地であり、例え安禄山営州の人で、母はチュルク系人であり、范陽郡(漢・隋の涿郡)を根拠に唐に反乱起こしたが、趙匡胤の父の趙弘殷は後唐荘宗親衛隊出身であり、後周世宗親衛隊になったが、趙匡胤後周世宗親衛隊長から恭帝代わり宋の皇帝となったように、沙陀トルコ人後唐親衛隊或いは同じよう出自問題のある後周親衛隊長という点からして趙氏は北族の出身であろう述べている。 宇山卓栄は、「王朝(宋) 建国者(趙匡胤氏族名趙氏民族トルコ人沙陀族建国時期10世紀)」「宋王朝建国者、趙匡胤トルコ人沙陀族出身とされる」「宋王朝民族主義政治的に利用し政権求心力高めようとしました。ところが、この宋王朝は実は漢人つくった王朝ではありません。トルコ人沙陀族』のつくった王朝です。宋王朝は、文治主義という非軍事外交異民族宥和していく政策知られるため、漢人王朝誤解されることが多いのですが、実はそうではありません。唐王朝滅んだ後、その混乱の隙を突いて923年トルコ人突厥)の李存勗後唐建国ます。宋王朝建国者の趙匡胤趙氏一族は、後唐近衛軍将官武将でした。トルコ人王朝後唐要職にあった趙氏一族もやはり、トルコ人であるとされますまた、趙匡胤騎射秀でており、暴れ馬乗りこなしていたとするエピソードもあって、トルコ人遊牧民血統継いでいると見られます。では、トルコ人王朝の宋が、なぜ漢人中華思想奨励したのでしょうか。趙匡胤は自らの出自隠し自分前漢名臣趙広漢末裔であると称し漢人であると主張していました。これについて、江戸時代の日本儒学者林羅山は『蜀の劉備中山靖王末裔称したり、趙匡胤趙広漢末裔だと称したりすることは、系図切れているため疑わしい同様に戦国武将たちが自分貴人末裔だと称していたことも疑わしい』と述べてます。趙匡胤主張には何の根拠もありませんでしたが、自分漢人であると主張することにより、多数派漢人共感得ようとしました」と述べている。

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趙氏の出自

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/04 16:18 UTC 版)

趙匡胤」の記事における「趙氏の出自」の解説

趙匡胤自身遠祖涿郡蠡吾県の人である前漢名臣趙広漢末裔自称していたが、このことは早くから疑問視されていた。例え日本江戸時代林羅山は『寛永諸家系図伝』序において、「蜀漢劉備中山靖王劉勝の子孫だといったり、趙匡胤趙広漢末裔だといったりしているのは途中系図切れていて疑わしい戦国武将系図にも同様の例が多い」とわざわざ引き合い出しているほどである。 加藤徹は、趙匡胤の父の趙弘殷は突厥沙陀部国家である後唐近衛軍将官であり、世襲軍人だった趙氏一族突厥沙陀部の血が混ざっていた可能性は高いと述べている。 楊海英は、「960年後周趙匡胤帝位につき、国号宋。趙氏一族テュルク系出自との説あり」と述べている。 岡田英弘は、「北宋は北族の王朝」として、趙匡胤涿郡河北省保定市北京市の南)の人であるが、涿郡は唐はソグド人チュルク系人、契丹人などが多く住む外国人住地であり、安禄山営州の人で、母はチュルク系人であり、范陽郡(漢・隋の涿郡)を根拠に唐に反乱起こしたが、趙匡胤の父の趙弘殷は後唐荘宗親衛隊出身であり、後周世宗親衛隊になったが、趙匡胤後周世宗親衛隊長から恭帝代わり宋の皇帝となったように、突厥沙陀人の後唐親衛隊あるいは同様に出自問題のある後周親衛隊長という点からして趙氏は北族の出身であろう述べている。 宇山卓栄は、「王朝(宋) 建国者(趙匡胤) 、氏族名趙氏) 、民族突厥沙陀部) 、建国時期10世紀)」「宋王朝建国者、趙匡胤突厥沙陀族出身とされる」「宋王朝民族主義政治的に利用し政権求心力高めようとしました。ところが、この宋王朝は実は漢人つくった王朝ではありません。テュルク系突厥沙陀族」のつくった王朝です。宋王朝は、文治主義という非軍事外交異民族宥和していく政策知られるため、漢人王朝誤解されることが多いのですが、実はそうではありません。唐王朝滅んだ後、その混乱の隙を突いて923年テュルク系人(突厥沙陀部)の李存勗後唐建国ます。宋王朝建国者の趙匡胤趙氏一族は、後唐近衛軍将官武将でした。テュルク系人王朝の後唐要職にあった趙氏一族もやはり、テュルク系人であるとされますまた、趙匡胤騎射秀でており、暴れ馬乗りこなしていたとするエピソードもあって、テュルク系遊牧民血統継いでいると見られます。では、テュルク系王朝の宋が、なぜ漢人中華思想奨励したのでしょうか。趙匡胤は自らの出自隠し自分前漢名臣趙広漢末裔であると称し漢人であると主張していました。これについて、江戸時代の日本儒学者林羅山は『蜀漢劉備中山靖王末裔称したり、趙匡胤趙広漢末裔だと称したりすることは、系図切れているため疑わしい同様に戦国武将たちが自分貴人末裔だと称していたことも疑わしい』と述べてます。趙匡胤主張には何の根拠もありませんでしたが、自分漢人であると主張することにより、多数派漢人共感得ようとしました」と述べている。

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