赤堀氏とは
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/27 23:19 UTC 版)
秀郷流の藤原氏である。 上野国・下野国より応永年間から四日市に移住してきた。 文明年間に赤堀一族が赤堀氏・浜田氏・羽津氏の三家に分裂した。 北伊勢地域の有力国人であったが織田氏に抵抗して赤堀氏は滅亡した。 赤堀氏の本貫で名字の土地は上野国赤堀郷である。四日市で「あかほり」と読むが群馬県で「あかぼり」と読む。赤堀山南麓一帯の赤堀郷出身で文明二年 1) 赤堀兵庫助 2) 浜田親綱の名前の2通の文書が古文書にある。赤堀山南麓一帯に秀郷流藤原氏が形成土着した。1352年(観応三年)に赤堀下野守は伊勢国のマガノ御園の地頭職となり伊勢国に所領を持った事が確認される。長松御園内野美名をめぐる争論文書の浜田親綱書状態は「赤堀はまだ」の記述があり、赤堀浜田氏と呼ばれていた。群馬県赤堀町は伊勢崎市の北方の位置で遠くに赤城山を望む。古代から中世にかけて佐位郡に所属していた。赤堀町内に赤堀氏の城館が2つあった。赤城山付近一帯に11世紀後半から12世紀にかけて秀郷流藤原氏が土着して所領を形成して武士として発展成長した。赤堀氏は藤原秀郷の末裔である意識が根強く浜田氏が毎月1日に一族を集めて藤原秀郷が竜宮から持ち帰ったとされる太刀を祭具として赤堀一族の同族としての意識を向上させる儀式を行っていた。赤堀氏は勝謂系と時秀系の2つの家系があるが伊勢赤堀氏は勝謂系の系統が赤堀郷を領有している事から赤堀氏の嫡流とされる。伊勢赤堀氏の実名が最初に確認される人物が民舞少輔直綱である。古文書に文和二年三郎左衛門入道勝謂や応永三年民輔直綱や応永18年三郎左衛門尉や応永20年孫次郎や応永25年兵庫入道など赤堀一族の名前が確認される。南北朝時代から戦国時代に赤堀氏が勢力を拡大した。南北朝時代以降の赤堀氏は三重郡の有力国人となった。有力国人として成長した赤堀氏であったが没落の危機があった。正長元年に北畠満雅が挙兵した正長の乱が南朝の小舘にあった。称光天皇が重体で皇位継承問題が起きる。北畠満雅が鎌倉公方の足利持氏を担ぎ、秋北畠満雅が討死した。幕府勢守護の土岐持頼が伊勢国の長野氏の長野一族が加わる。北畠方にが鈴鹿郡の関一族と赤堀氏が味方する。幕府勢が攻勢を強めて赤堀氏は管領の畠山満家を頼って降服した。関氏は最後まで抗戦した。史料上で赤堀一族の活動が明らかになる文明元年に 1) 赤堀兵庫助の名前 2) 浜田親綱の名前の二通の文書があった。伊勢神宮の文書①赤堀浜田氏②赤堀羽津氏の赤堀一族の名前が出てくる。赤堀一族は赤堀氏から浜田氏・羽津氏が分家した。小守護代の大矢知氏の大矢知正房は文明元年の後半に伊勢国の守護に帰り咲いた一色義春の被官として羽津氏が活動している。一色氏の支配は守護代の石河直清とその代官の小守護代の大矢知正房体制で勢力は三重郡・朝明郡東部に限られた。
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