赤報隊の実態
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「官軍の捨て駒にされた悲劇の主人公」として扱われてきた赤報隊だが、必ずしも正義の軍であったとは言えない一面があった。 慶応3年(1867年)10月、討幕の密勅を根拠として、西国と東国で同時挙兵する構想が練られていた。相楽たちは関東3か所で挙兵する計画を立てていたが、その後、大政奉還が実現したことにより密勅は取消されている。薩摩藩は江戸薩摩藩邸宛てに関東での攪乱工作の停止を指示し、大政奉還の翌日にも「鎮静」するように念を押している。それにもかかわらず、相楽たちは指示をことごとく無視して出流山事件と荻野山中陣屋襲撃を起こし、いずれも鎮圧されている。相楽たちの軍資金は豪商を襲って得たものであった。相楽たちの挙兵は旧幕府方を刺激し、庄内藩と旧幕府軍による江戸薩摩藩邸の焼討事件に発展している。 江戸を脱出した相楽たちは近江の金剛輪寺で赤報隊を結成し、赤報隊は東海道先鋒総督府の指揮下に入り、桑名への進軍を指令されたが、ここでも相楽は独断で東山道に進んで「御一新」と「旧幕府領の当年分、前年未納分の年貢半減」を布告している。年貢半減の布告は朝廷の了解を得ていたが、のちに撤回されている。 赤報隊一番隊は東山道鎮撫総督府への所属替えを希望し、2月上旬には薩摩藩兵の付属になるよう指示を受けていた。しかしながら、相楽は指示に従わず独立行動を続行し、碓氷峠を目標に進軍する。相楽たち赤報隊の度重なる独立行動や独断専行を危惧した新政府は赤報隊に帰還を命じたが、相楽たちは命令に従わなかった。これにより、相楽たち赤報隊は官軍の名を利用して沿道から勝手に金穀を徴収し、略奪行為を行う「偽官軍」と見なされることになる。 東山道軍は、赤報隊捕縛命令を信州諸藩に通達し、かねてより赤報隊の振る舞いに反感を抱いていた小諸藩など近隣諸藩が連合を組んで赤報隊を攻撃した。このとき相楽は、今まで無視してきた東山道総督府からの召喚にようやく応じて隊を留守にしていた。 出頭した相楽は、東山道軍所属を正式に認められたものの、小諸藩から赤報隊による勝手な金策や、暴行行為を通報されたことにより、ついに処刑された(相楽総三・赤報隊史料集)。
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