赤報隊の実態とは? わかりやすく解説

赤報隊の実態

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/24 17:56 UTC 版)

赤報隊」の記事における「赤報隊の実態」の解説

官軍捨て駒にされた悲劇主人公」として扱われてきた赤報隊だが、必ずしも正義の軍であったとは言えない一面があった。 慶応3年1867年10月討幕の密勅根拠として、西国東国同時挙兵する構想練られていた。相楽たちは関東3か所で挙兵する計画立てていたが、その後大政奉還実現したことにより密勅取消されている。薩摩藩江戸薩摩藩宛て関東での攪乱工作停止指示し大政奉還翌日にも「鎮静」するように念を押している。それにもかかわらず相楽たちは指示ことごとく無視して出流山事件荻野山中陣屋襲撃起こしいずれも鎮圧されている。相楽たちの軍資金豪商襲って得たものであった相楽たちの挙兵旧幕府方を刺激し庄内藩旧幕府軍による江戸薩摩藩邸の焼討事件発展している。 江戸脱出した相楽たちは近江金剛輪寺赤報隊結成し赤報隊東海道先鋒総督府指揮下に入り桑名への進軍指令されたが、ここでも相楽独断東山道進んで御一新」と「旧幕府領の当年分、前年未納分の年貢半減」を布告している。年貢半減布告朝廷了解得ていたが、のちに撤回されている。 赤報隊一番隊東山道鎮撫総督府への所属替え希望し2月上旬には薩摩藩兵の付属になるよう指示受けていた。しかしながら相楽指示従わず独立行動続行し碓氷峠目標進軍する相楽たち赤報隊度重なる独立行動独断専行危惧した新政府赤報隊帰還命じたが、相楽たちは命令に従わなかった。これにより、相楽たち赤報隊官軍の名を利用して沿道から勝手に金穀徴収し略奪行為を行う「偽官軍」と見なされることになる。 東山道軍は、赤報隊捕縛命令信州諸藩通達しかねてより赤報隊振る舞い反感抱いていた小諸藩など近隣諸藩連合組んで赤報隊攻撃した。このとき相楽は、今まで無視してきた東山道総督府からの召喚にようやく応じて隊を留守にしていた。 出頭した相楽は、東山道所属正式に認められたものの、小諸藩から赤報隊による勝手な金策や、暴行行為通報されたことにより、ついに処刑された(相楽総三赤報隊史料集)。

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