羽津氏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/27 23:19 UTC 版)
近鉄線の阿倉川駅と霞ヶ浦駅との中間の丘陵が羽津城であった。羽津城の跡地は近鉄名古屋線で中央を区域を分断されている。羽津城の東部分は四日市市立の保育園となり、西の部分は土塁や空堀の一部が残っている。城の南には三重川の小さい流域があり、昔は羽津城下を南北に東海道が貫いていたという。羽津城は赤堀城主の田原肥前守景信の長男の右衛門大夫盛宗が築城して、羽津村・八幡村・吉沢村など6ヵ村を領有して、伊勢国の国司の北畠氏の属する城主であった。築城は応永年間か文明2年(1470年)と言われるがはっきりしていない。赤堀氏・浜田氏と共に羽津氏は赤堀三家と呼ばれる北伊勢の豪族として、羽津氏は羽津盛宗・羽津宗久・羽津宗善・羽津宗慶・羽津宗昌・羽津近宗(羽津国虎)と代々羽津氏は繁栄した。羽津城の跡地に住所は四日市市羽津町字城山である。元亀二年(1571年)に隣接の茂福城主朝倉氏が織田信長軍の滝川一益に長島城に招かれて謀殺されたので、茂福城には滝川一益の臣下の山口氏が目代として入城していた。 元亀3年(1575年)に羽津城主だった羽津近宗は、茂福城の目代の山口氏に招かれたが毒殺されて、山口氏は羽津城を攻撃して羽津城は落城した。羽津城には滝川新右衛門を城番として置く事として。1説には永禄11年の織田信長に滅ぼされた記述もある。天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いで秀吉軍が陣地として羽津城を使用したという。
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