資本自由化による機関化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 09:35 UTC 版)
1970年2月以降、佐藤政権下で日本株価の堅調を見た国際投信による買い越しが続いた。4月30日、バーナード・コーンフェルド率いるIOSの経営危機をきっかけとして海外投資家による大量売りがおこった(いわゆるIOSショック)。世界的に株価暴落、日経平均株価も8.7%下げた。日本は外国人による政府短期証券の取得を禁じ、また非居住者による非上場公社債・公社債投信の取得も禁じ(1971年)、もっとすすんで外国人が対日証券投資を純増できなくした(1972年)。しかし投信は解約にめげるどころか資本自由化を迫ってきた。日本側の措置は1973-4年を通して全廃された。 1971年5月4日、野村投信委託が日本初の国際投信(国際合同投信)を150億円で設定した。この投資顧問は、ドレフュスとモルガン・グレンフェル(現ドイツ銀行)であった。オイルショックの1972年11月、外国投信の国内販売が自由化された。翌1973年からファミリーファンドは設定額を次第に減らした。1973年1月29日には大和証券がドレフュス・ファンドを日本国内で販売開始した。1976年1月、ファミリーファンドは無期限だった信託期間を有期に改めるなどの改善策がとられた。翌1977年には株式投信の57%を占めた。新商品も開発の主軸が単位型から追加型へ移っていった。 1980年に発売された中期国債ファンドが、一ヶ月据え置き後出し入れ自由、銀行預金を上回る実質金利で一ヶ月複利などの商品性を持つことから人気商品となった。証券会社は預金類似商品の開発などにより投資信託の大衆化を図った。組み入れ証券は傾向が1970年代とさして変わらず、供給量を直接取引が抑えてくれいてた一流企業の株式や公社債であった。このような官民癒着に外資が便乗した。 1985年、住友銀行が買収したゴッタルド銀行(Gotthard-Bank)が、イトマン発行外債の主幹事をやるということで銀証分離が骨抜きにされた。この同年4月には日本電信電話と日本たばこ産業が民営化され、株式は即座に機関化された。5月21日、長期信用銀行・第一証券・ベアリングス銀行の三社が日本の機関投資家対象の投資顧問業について全面提携することで合意した。1986年12月、東京がオフショア市場として開放された。そしてリクルート事件が日本の機関化を正当化した。
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