財閥としての飛躍
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1887年(明治20年)に安田保善社(現安田不動産)を設立して財閥の要とし、銀行業以外への拡張を開始、釧路硫黄山(鉱山)と釧路鉄道、函館倉庫にまで手を広げた。とくに硫黄は火薬の原料として海外に向けて輸出しその資金が財閥の基礎を築くに至る。1893年(明治26年)に帝国海上保険を設立し、損保業務の充実をはかり、翌1894年(明治27年)に共済五百名社を共済生命保険に改組し生保業務も盤石を期した。同年には海運会社安田運搬事務所を設立している。1896年(明治29年)には不動産業務の東京建物を設立し、翌1897年(明治30年)に国産の洋釘を製造するために安田製釘所(現安田工業)を設立した。同年、後の太平洋興発(三井財閥傍系)の前身となる安田炭鉱を釧路に設置した。1899年(明治32年)には拡大した事業を統括するために安田商事を設立し統率をとり、同年紡績業務として西成紡績所を設置した。 1904年(明治37年)、関西の松本財閥破綻処理を政府に要請されるも、不採算と判断し拒絶するが、「天皇の意向」と政府に言い含められ、強引に引き受けさせられる。松本財閥の基幹銀行である百三十銀行の建て直しに際しては、日本銀行の特別貸付600万円を受けたため国民の非難を受けたが、元利そろえて返済したところ、安田財閥には、27万円の損害が残った。(『富の活動』第四編) 釧路硫黄鉱山の硫黄採掘は集治監の囚人が酷使され多くの犠牲者を出した。 安田財閥の発展を見るとき、安田善次郎の同郷の人である浅野総一郎(浅野財閥創始者)を無くして語ることはできない。無一文から立ち上がった浅野総一郎に対する善次郎の助力は並外れており、浅野財閥自体が安田財閥の事業部門であるかの如く、鶴見埋立匿名組合(後の東亜建設工業)による京浜地区浚渫埋立事業(浅野埋立)や、浅野セメント(後の日本セメント、現太平洋セメント)や日本鋼管(現JFEスチール)への出資など、数々の事業に対する投資を惜しまなかった。安田善次郎は卓越した金銭感覚と、成功しない事業と断定した者に対する厳しさから「天下一のしまり屋」として知られており、浅野に対する投資は他の一般投資とは一線を画していた。
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