豊登の時代
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力道山の死後、グレート東郷はブッキング料を巡る対立でブッカーを解任され、ミスター・モトが新しいブッカーとなる。翌1964年1月10日には、力道山未亡人であった百田(田中)敬子が社長に就任する。しかし同時期に豊登、遠藤幸吉、吉村道明、芳の里の4人が「日本プロ・レスリング興業株式会社」を別途設立し、興行収入や日本テレビからの放映権収入は4人が設立した「日本プロ・レスリング興業株式会社」が手に入れることとなったと同時に、旧来の「日本プロレスリング興業株式会社」は力道山が残した膨大な負債を背負うことになった。 1964年までの「日本プロレス協会」役員の構成は、会長の児玉誉士夫、副会長の田岡一雄(3代目山口組組長)、町井久之(東声会会長)となっており、このため浜松より西の興行は田岡、関東は町井、東北以北は児玉の盟友である岡村吾一の影響下にあったとされる。1965年に入ると、警察勢力はこの陣容に対して、日本プロレス協会の解体を迫ることとなり、これを受けて豊登ら4人は、1965年2月22日に記者会見を行い、役員を刷新することを発表した。これにより児玉、田岡、町井の3人は役員を退任し、協会長には元衆議院議員の平井義一が就任する。これとほぼ同じ時期に、日本プロレスリングコミッション事務局長だった工藤雷介からの要請で、同コミッション事務局次長となったのが門茂男である。 社長となった豊登は1964年から1965年にかけてエースとなる。同時期には斎藤昌典(マサ斎藤)、杉山恒治(サンダー杉山)、草津正武(草津清正、グレート草津)ら、大物アマチュアスポーツ選手も日プロに入団した。 大の博打好きの豊登は、公金を横領し、競馬や競輪などギャンブルへ流用するなど放漫経営などにより、1966年1月に尿管結石の悪化を名目に退職(事実上の追放処分)となる。豊登は猪木を引き抜いて東京プロレスを設立した。東京プロレス旗揚発表直後に日本プロレスは妨害工作を開始し、東京プロレスを短期間で崩壊に追い込むため、当時使用料が高額だった日本武道館でのプロレス初興行を開催し、武道館大会の目玉にフリッツ・フォン・エリックを招聘した。東京プロレスは、日本プロレスによる妨害工作、テレビ中継が無いゆえの興行不振に加え、そこでも公金を私的に流用するなど経営が立ち行かず短期間で崩壊し、猪木は日プロに復帰し、また永源勝(永源遙)などの一部選手は日プロへ移籍した。 また当時取締役営業部長だった吉原功も、経営路線の対立が元で1966年10月に同社を退社して国際プロレスを設立し、1967年1月に旗揚げ戦が行われた。同じ日本プロレス退団組であるヒロ・マツダ、マティ鈴木、杉山恒治、草津正武、レフェリーのマンモス鈴木、阿部修、レフェリー兼リングアナウンサーの竹下民夫も加わり、豊登や木村政雄(ラッシャー木村)など一部の東京プロレス組も合流した。国際プロレスは二番手団体として日本プロレスと競合し、国際プロレスがブッカーとして招聘した東郷とも対立。その上日本プロレスは国際プロレスに対し、外国人レスラーの招聘ルートや後楽園ホールを使用不可にするなどなどで妨害をかけ、国際プロレス団や全日本プロレス協会同様に解散に持ち込もうとした。
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