豊登の時代とは? わかりやすく解説

豊登の時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 04:14 UTC 版)

日本プロレス」の記事における「豊登の時代」の解説

力道山死後グレート東郷ブッキング料を巡る対立ブッカー解任されミスター・モト新しブッカーとなる。翌1964年1月10日には、力道山未亡人であった百田田中)敬子が社長に就任する。しかし同時期に豊登遠藤幸吉吉村道明芳の里の4人が「日本プロ・レスリング興業株式会社」を別途設立し興行収入日本テレビからの放映権収入は4人が設立した日本プロ・レスリング興業株式会社」が手に入れることとなった同時に旧来の日本プロレスリング興業株式会社」は力道山残した膨大な負債背負うことになった1964年までの「日本プロレス協会役員構成は、会長児玉誉士夫副会長田岡一雄3代目山口組組長)、町井久之東声会会長となっており、このため浜松より西の興行田岡関東町井東北以北児玉盟友である岡村吾一影響にあったとされる1965年に入ると、警察勢力はこの陣容に対して日本プロレス協会解体を迫ることとなり、これを受けて豊登ら4人は、1965年2月22日記者会見行い役員刷新することを発表した。これにより児玉田岡町井の3人は役員退任し協会長には元衆議院議員平井義一就任する。これとほぼ同じ時期に、日本プロレスリングコミッション事務局長だった工藤介からの要請で、同コミッション事務局次長となったのが門茂男である。 社長となった豊登1964年から1965年にかけてエースとなる。同時期に斎藤昌典マサ斎藤)、杉山恒治サンダー杉山)、草津正武草津清正グレート草津)ら、大物アマチュアスポーツ選手も日プロ入団した大の博打好きの豊登は、公金横領し競馬競輪などギャンブル流用するなど放漫経営などにより、1966年1月尿管結石悪化名目退職事実上追放処分)となる。豊登猪木引き抜いて東京プロレス設立した東京プロレス旗揚発表直後日本プロレス妨害工作開始し東京プロレス短期間崩壊追い込むため、当時使用料高額だった日本武道館でのプロレス興行開催し武道館大会目玉フリッツ・フォン・エリック招聘した。東京プロレスは、日本プロレスによる妨害工作テレビ中継が無いゆえの興行不振加え、そこでも公金私的に流用するなど経営が立ち行かず短期間崩壊し猪木は日プロ復帰し、また永源勝永源遙)などの一部選手は日プロへ移籍した。 また当時取締役営業部長だった吉原功も、経営路線対立が元で1966年10月同社退社して国際プロレス設立し1967年1月旗揚げが行われた。同じ日本プロレス退団組であるヒロ・マツダマティ鈴木杉山恒治草津正武レフェリーマンモス鈴木阿部修、レフェリーリングアナウンサー竹下民夫も加わり豊登木村政雄ラッシャー木村)など一部東京プロレス組も合流した国際プロレス二番手団体として日本プロレス競合し国際プロレスブッカーとして招聘した東郷とも対立。その上日本プロレス国際プロレス対し外国人レスラー招聘ルート後楽園ホール使用不可にするなどなど妨害をかけ、国際プロレス団全日本プロレス協会同様に解散持ち込もうとした。

※この「豊登の時代」の解説は、「日本プロレス」の解説の一部です。
「豊登の時代」を含む「日本プロレス」の記事については、「日本プロレス」の概要を参照ください。

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