護国卿時代
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「イングランド王政復古」の記事における「護国卿時代」の解説
1658年9月3日の護国卿オリバー・クロムウェルの死後、世襲で三男リチャード・クロムウェルが次の護国卿となった。彼が父の政策を受け継ぎ遂行する能力を持っていたならば、イングランド王政復古時代の前のイングランド共和国時代(護国卿時代)はもっと続いたかもしれない。だが、リチャードの大きな弱みはニューモデル軍からの信頼を取りつけられなかったことだった。護国卿就任から7か月後1659年5月6日に、ウォリングフォード・ハウス党派として知られる軍の一派によってリチャードは引退させられ、ランプ議会(残部議会)が再設置された。 リチャードの義兄チャールズ・フリートウッドは保安委員会、イングランド国務会議の構成員、そして7人の軍理事のうちの1人に任命された。さらに同年6月9日には軍最高司令官(Lord General)に指名されたが、彼の指導者としての地位は清教徒革命後の議会と同様に軍隊の影響力を小さくしようとした当時の議会の中で蝕まれていた。一方、王党派の蜂起は8月1日に計画されていて、計画自体は失敗したがジョージ・ブース卿はチェシャー州の支配権を獲得した。オランダに亡命していたチャールズ2世はブースの蜂起に気を良くして、スペインの援助でイギリスに上陸できると期待していたが何も起こらず、ブースも8月末にジョン・ランバート将軍に敗れた。 10月12日、ランプ議会はランバート将軍や他の将校たちを解任し、フリートウッドを庶民院議長の権限下の軍事委員会の長に任命した。翌日、ランバートは下院議場の扉を閉じ、議員たちを締め出した。26日、ランバートとフリートウッドら構成員の保安委員会が設立され、ランバートがイングランドとスコットランドの全軍隊の少将に就任し、フリートウッドは将軍になった。 保安委員会はランバートを大軍とともに、スコットランドに駐屯していたイングランド部隊の指揮官ジョージ・マンクのもとに、マンクと交渉してもしくは強制的に合意するという任務に送りだした。 スコットランド駐留軍の司令官マンクがスコットランドから部隊を引き連れ南下したのはこの状況下であった。ランバートの軍隊がランバートを見捨て、ランバートはロンドンにほぼたった1人で帰った。マンクは対立者不在の中でロンドンに進軍した。1648年のプライドのパージで排除された長老派が呼び戻され、12月24日に軍隊が長期議会を復活させた。フリートウッドは指揮権を剥奪され、自身の行いの申し開きをするために議会に出頭するよう命じられた。 1660年3月3日、ランバートはロンドン塔に送られたが1か月後脱走、イングランド共和国に味方して、古き善き大義の支持者全員に対し、エッジヒル戦場に再び結集せよとの宣言を発することで、内戦を再勃発させようとした。だが、ランバートは彼を新政権に引き渡して、恩赦を勝ち取ろうとしたリチャード・インゴルスビー大佐に捕まり、再び囚われの身となる。インゴルスビー大佐はチャールズ1世を死刑に処した判事の一人であった。ランバートは投獄されて1684年、ドレイク島での拘留中に死去し、インゴルスビーは赦免された。
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