護国卿時代とは? わかりやすく解説

護国卿時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/28 15:25 UTC 版)

イングランド王政復古」の記事における「護国卿時代」の解説

1658年9月3日護国卿オリバー・クロムウェル死後世襲三男リチャード・クロムウェル次の護国卿となった。彼が父の政策受け継ぎ遂行する能力持っていたならば、イングランド王政復古時代の前のイングランド共和国時代(護国卿時代)はもっと続いたかもしれない。だが、リチャード大きな弱みニューモデル軍からの信頼取りつけられなかったことだった。護国卿就任から7か月1659年5月6日に、ウォリングフォード・ハウス党派として知られる軍の一派によってリチャード引退させられランプ議会残部議会)が再設置された。 リチャード義兄チャールズ・フリートウッド保安委員会イングランド国務会議構成員、そして7人の軍理事のうちの1人任命された。さらに同年6月9日には軍最高司令官Lord General)に指名されたが、彼の指導者としての地位清教徒革命後の議会同様に軍隊影響力小さくようとした当時議会の中で蝕まれていた。一方王党派蜂起8月1日計画されていて、計画自体失敗したがジョージ・ブース卿はチェシャー州の支配権獲得したオランダに亡命していたチャールズ2世ブース蜂起に気を良くして、スペイン援助イギリス上陸できると期待していたが何も起こらずブース8月末にジョン・ランバート将軍敗れた10月12日ランプ議会ランバート将軍や他の将校たちを解任し、フリートウッドを庶民院議長権限下の軍事委員会の長に任命した翌日ランバート下院議場の扉を閉じ議員たちを締め出した26日ランバートとフリートウッドら構成員保安委員会設立されランバートイングランドスコットランド全軍隊の少将就任し、フリートウッドは将軍になった保安委員会ランバート大軍とともにスコットランド駐屯していたイングランド部隊指揮官ジョージ・マンクのもとに、マンク交渉してもしくは強制的に合意するという任務送りだした。 スコットランド駐留軍司令官マンクスコットランドから部隊引き連れ南下したのはこの状況であったランバート軍隊ランバート見捨てランバートロンドンにほぼたった1人帰ったマンク対立者不在の中でロンドン進軍した1648年プライドのパージ排除され長老派呼び戻され12月24日軍隊長期議会復活させた。フリートウッドは指揮権剥奪され自身行い申し開きをするために議会出頭するよう命じられた。 1660年3月3日ランバートロンドン塔送られたが1か月脱走イングランド共和国味方して古き善き大義支持者全員対し、エッジヒル戦場に再び結集せよとの宣言発することで、内戦を再勃発させようとした。だが、ランバートは彼を新政権引き渡して恩赦勝ち取ろうとしたリチャード・インゴルスビー大佐捕まり、再び囚われの身となる。インゴルスビー大佐チャールズ1世死刑処した判事一人であったランバート投獄され1684年ドレイク島での拘留中に死去し、インゴルスビーは赦免された。

※この「護国卿時代」の解説は、「イングランド王政復古」の解説の一部です。
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