警備・訓練中隊
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「ヴィルヘルム・ヴェーバー (親衛隊隊員)」の記事における「警備・訓練中隊」の解説
最低身長170cmもしくは175cm の身長制限が設けられた警備・訓練中隊には、SS所属武装擲弾兵旅団「シャルルマーニュ」のフランス人義勇兵の中でも特に屈強な隊員約200名が集められ、ヴェーバーは警備・訓練中隊を4個小隊から成る中隊として再編成を開始した。 第1小隊長と第2小隊長にはドイツ海軍出身のフランス人義勇兵フランソワ・アポロ武装曹長(W-Oscha. François Appolot)とウジェーヌ・ヴォロ武装伍長(W-Uscha. Eugène Vaulot)がそれぞれ就任し、分隊長の大半以上は1944年8月のガリツィアの戦いの負傷から回復した第8フランスSS義勇突撃旅団出身の古参兵であった。また、警備・訓練中隊の1個小隊は15歳~18歳の非常に若い義勇兵で構成されていたことから「ユーゲント」(Jugend)小隊と呼ばれていた(この未成年小隊に支給されるレーションにタバコ3箱は含まれていなかった)。 再編成の期間中、ヴェーバーは副官としてフランス民兵団出身のフランス人義勇兵ジャック・パスケ武装連隊付上級士官候補生(W-StdObJu. Jacques Pasquet)を指名した。パスケは戦前のフランスにおける名うてのスポーツ選手・モデルであり、1937年にはフランス一の美男子を競うコンクール「ミスター・フランス」(Mr. France)、欧州一の美男子を競うコンクール「ミスター・ヨーロッパ」(Mr. Europe)で優勝した人物であった。また、中隊先任曹長(Spieß)にはルクセンブルク国籍を持つ下士官クラインSS曹長(SS-Oscha. Klein)が選ばれた。 再編成完了後、警備・訓練中隊は「名誉中隊」(仏:Compagnie d'Honneur(コンパニ・ドヌール))と改称した。 SS所属武装擲弾兵旅団「シャルルマーニュ」名誉中隊(Compagnie d'Honneur / Waffen-Grenadier-Brigade der SS „Charlemagne“):1944年末~1945年初旬 ヴィルトフレッケン演習場 中隊長 ヴィルヘルム・ヴェーバーSS中尉(SS-Ostuf. Wilhelm Weber)(ドイツ人) 副官 ジャック・パスケ武装連隊付上級士官候補生(W-StdObJu. Jacques Pasquet) 先任曹長 クラインSS曹長(SS-Oscha. Klein)(ルクセンブルク人) 第1小隊 フランソワ・アポロ武装曹長(W-Oscha. François Appolot) 第2小隊 ウジェーヌ・ヴォロ武装伍長(W-Uscha. Eugène Vaulot) 第3小隊 不明 第4小隊 不明 注:第1~第4小隊のいずれが「ユーゲント」小隊かは不明。 そして、名誉中隊はヴェーバーの過酷な訓練プログラムによって徹底的に鍛え上げられた。 (完全装備で)30 km、50 km、60kmに及ぶ長距離行軍。 果てしなく続く武器教練、格闘訓練、対戦車戦闘訓練。 凍える気温と深い雪の中で24時間を過ごす雪中戦訓練。 作戦中の指示は全てドイツ語が用いられ、中隊長ヴェーバーSS中尉はフランス語を一切使用しなかった。 あらゆる失敗に懲罰が与えられた。 これらの訓練を通じ、名誉中隊の結束は日に日に強まっていった。隊員(フランス人義勇兵)の出身組織・政治的立場は過去のものとなり、彼らは「フランスのためでもドイツのためでもなく、国境の無い1つのヨーロッパのために戦う」 ことを目標にするようになった。 ちなみに、1944年末の時期の「シャルルマーニュ」旅団は物資(装備・燃料・食糧)の不足が問題となっていたが、この問題は名誉中隊にも及んでいた。訓練中に負傷した隊員を搬送する救急車がガス欠であったため、やむを得ずヴェーバーは近くの村から借りてきた馬車で負傷者を病院まで運んでいた。
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