諏訪鉱山についてとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 諏訪鉱山についての意味・解説 

諏訪鉱山について

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/07 08:42 UTC 版)

日立鉱山」の記事における「諏訪鉱山について」の解説

諏訪鉱山日立鉱山中心部から約4キロ南にあり、長さ約1キロ、幅約200メートルの鉱体から黄鉄鉱などの硫化鉄鉱や含硫化鉄鉱産出した鉱山であった諏訪鉱山1897年明治30年)に北の沢鉱山として開発始まりその後数人所有経て1917年大正6年4月久原鉱業買収した。この当時化学工業発展によって硫酸消費量伸びつつあり、ようやく硫化鉄鉱需要見られるようになっていた。なお鉱夫たちの間に存在した友子は、1929年昭和4年)まで諏訪鉱山独立組織であったが、同年日立鉱山友子組織編入された。 久原鉱業所有となり、日立鉱山の支山となった諏訪鉱山であったが、久原鉱業以前から働いていた鉱夫たちが久原鉱業鉱山経営反発し当初生産は上がらなかった。1919年大正8年)に、諏訪鉱山から日立鉱山精錬所がある大雄院まで鉄索完成して鉱石輸送体制が整い本格的な生産乗り出そうとした矢先1920年大正9年)の恐慌によって、1921年大正10年3月から約一年間休山追い込まれた。 低迷する市場比べて需要伸びていた硫化鉄鉱価格上昇するようになったため、久原鉱業硫化鉄鉱採掘力を入れ方針固めた1922年大正11年)には諏訪鉱山採掘再開しその後積極的な設備投資化学鉱業の発展による硫化鉄鉱需要急増後押し受けて諏訪鉱山1933年昭和8年)には年産5万トン越え硫化鉄鉱採掘する鉱山へと成長し最盛期には鉱山従業員とその家族1000人近人々諏訪鉱山周辺生活するようになった。また戦時中日立鉱山同じく諏訪鉱山でも朝鮮人労働者多く働いており、1941年昭和16年)の段階朝鮮人坑内労働者の比率が5割を越え朝鮮人労働者日本人側との間にトラブル発生した戦後諏訪鉱山硫化鉄鉱採掘続けていたが、諏訪鉱山採掘される硫化鉄鉱品位が低いために市場販売が困難となり、また日立鉱山全体合理化進み日立鉱山本体採鉱集中する必要性高まっており、1961年昭和36年)、諏訪鉱山での硫化鉄鉱採掘中止して硫化鉄鉱採掘のみを継続し余剰人員日立鉱山本体雇用することとなった。そして1965年昭和40年10月鉱量枯渇などのため諏訪鉱山閉山となり、やがて諏訪鉱山があった周辺には数軒の家が残るのみとなった

※この「諏訪鉱山について」の解説は、「日立鉱山」の解説の一部です。
「諏訪鉱山について」を含む「日立鉱山」の記事については、「日立鉱山」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「諏訪鉱山について」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「諏訪鉱山について」の関連用語

諏訪鉱山についてのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



諏訪鉱山についてのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの日立鉱山 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS