諏訪・今川氏との和睦
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信虎は天文4年(1535年)9月17日、諏訪頼満と甲信濃国境の堺川で対面し、諏訪大社上社の宝鈴を鳴らして和睦し、同盟関係が成立した。 天文5年(1536年)、『歴代土代』によれば、正月の除目(じもく)で、嫡男の太郎は従五位下・左京大夫に叙せられている。三条西実隆『実隆公記』では欠損部があるものの、信虎が従四位に叙せられたことを記していると考えられている。「高代寺日記」『後鑑』によれば、同年3月には嫡男の太郎が元服し、信虎は将軍義晴に対して偏諱を求め、太郎は「晴」の一字を拝領して「晴信」と名乗る。なお、晴信は天文10年(1541年)の信虎追放後に官途名を「大膳大夫」に改めている。 同年3月17日には、駿河国で同年4月10日に当主・今川氏輝と弟の彦五郎が同日に死去し、氏輝の弟である善徳寺承芳(後の今川義元)と玄広恵探の間で家督を巡る花倉の乱が発生する。信虎は北条氏綱とともに善徳寺承芳を支援し、同年6月14日に玄広恵探が自害することで善徳寺承芳が勝利する。新たに当主となった義元と信虎の間では同盟関係が結ばれており、信虎は早い段階から義元自身や後見人の寿桂尼らと接触していたと考えられている。『勝山記』によれば天文6年2月10日には信虎長女・定恵院が義元正室となり、婚姻関係が結ばれた。嫡男晴信の正室・上杉朝興の娘は天文4年に死去しており、これ以降に信虎は義元の斡旋により、晴信正室に公家の三条公頼の娘(三条夫人)を迎えている。正確な時期は不明であるが、『甲陽軍鑑』では天文5年の晴信元服の直後であるとしている。 『勝山記』によれば、甲駿同盟に際して武田家中でも反発が起こり、同年6月に甲斐国内に亡命していた反義元派を支援した前嶋一門を切腹させており、これに対して反発する奉行衆が甲斐を退去する事件も発生している。また、今川氏の同盟国であった後北条氏も甲駿同盟に対には反発し、北条・今川間で抗争が発生する(第一次河東の乱)。第一次河東の乱では甲駿同盟は軍事同盟として機能し、信虎は駿東郡へ兵を派遣し今川氏を支援している。一方の後北条氏は天文7年に甲斐都留郡へ侵攻し吉田を襲撃しているが、天文8年(1539年)に北条氏綱は武田氏と和睦し、乱は収束する。 信虎は両上杉氏と同盟関係を持っていたが、天文6年(1537年)に扇谷上杉朝定が家督を継いだ頃には扇谷上杉氏はすでに本拠地の川越を失い没落していた。天文7年(1538年)10月には信虎と外交関係を持っていた小弓公方の足利義明が滅亡。これで関東における信虎の同盟者は山内上杉氏のみとなった。 天文5年(1536年)11月に信虎は信濃佐久郡に出陣しており、これが嫡男晴信の初陣となる。天文9年(1540年)には今井信元を浦城(旧北巨摩郡須玉町)で降伏させる(『勝山記』)。『塩山向嶽庵小年代記』によれば、同年4月に諏訪頼重と同調して信濃佐久郡へ出兵し、はじめて甲斐国外における所領を獲得する。同年11月には諏訪頼重に信虎の娘・禰々が嫁ぎ、諏訪氏との同盟関係が強化される。『神使御頭之日記』によれば、12月9日には頼重が甲府を訪れ、12月17日には信虎自身が諏訪を訪問している。 天文8年(1539年)11月には幕府内談衆の大館晴光が信虎に使者を派遣しており、将軍義晴に近い大館氏と交流があったことが確認される。『証如上人日記』によれば、天文9年(1540年)から本願寺証如と信虎との交流が記録されている。 信濃では諏訪氏のほか村上義清とも結び、『高白斎記』によれば、天文10年(1541年)5月25日には武田・村上・諏訪三氏と共同で信濃佐久郡への遠征を行っている。この遠征に信虎は晴信とともに出陣し、小県郡(長野県東御市)で起きた海野平の戦いで駆逐された海野棟綱が上野へ亡命して関東管領・上杉憲政を頼ると、憲政は佐久郡へ出兵した。信虎は同盟国である山内上杉氏と衝突することを避け撤兵し、6月4日に晴信とともに甲斐へ帰国する。帰国した信虎は6月14日に今川義元訪問のため駿州往還を駿河へ向かうが、この最中に晴信が甲駿国境に足軽を派遣して路地を封鎖し、信虎を国外追放する事件が発生する。
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