西尾家とは? わかりやすく解説

西尾氏

(西尾家 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/02/19 14:44 UTC 版)

西尾氏(にしおし)、西尾家(にしおけ)は、西尾を名字とする日本氏族

揖斐藩主家の西尾家

西尾光教は、美濃において斎藤道三織田信長豊臣秀吉に仕え、天正6年に美濃国曾根城主2万石に封じられた。関ケ原の戦いでは徳川方に与して戦功を挙げたことで慶長5年に美濃国揖斐藩主3万石に封じられたが[1]、1623年(元和9年)に無嗣改易されて大名家としては滅亡した。孫の氏教の子孫は4500石の旗本寄合席として存続した。

横須賀藩主家→華族子爵家の西尾家

吉良上総介満氏の後裔と伝わる西尾吉次が織田氏に仕えて3000石を与えられたのに始まり、その後徳川家康に仕えて、徳川の関東移封後の天正14年(1586年)に武蔵国足立郡原市に5000石を与えられた。慶長7年(1602年)に美濃国に7000石を加増されて1万2000石となり大名となる[2]。元和2年(1616年)上野国白井藩2万石に加増転封となり、その後常陸国土浦藩を経て、慶安2年(1649年)に5000石加増のうえ、駿河国田中藩主となる。信濃国小諸藩を経て、天和2年(1682年)に遠江国横須賀藩主となる。以降廃藩置県まで同地に在封。老中に出世した忠尚の代の延享2年(1745年)と寛延2年(1749年)に5000石加増があり、都合3万5000石となっている[3][4]

最後の横須賀藩主忠篤は、明治元年(1868年)に徳川宗家駿河国静岡藩を立藩するのに伴って、安房国花房藩に移封された。明治2年(1869年)6月の版籍奉還で花房藩知事に任じられ、明治4年(1871年)7月の廃藩置県まで同藩知事を務めた[5]

明治2年(1869年)6月17日の行政官達で公家大名家が統合されて華族制度が誕生すると西尾家も大名家として華族に列した[6][7]。版籍奉還の際に定められた家禄は1457石[8][注釈 1]。明治9年の金禄公債証書発行条例に基づき家禄の代わりに支給された金禄公債の額は、5万4800円90銭1厘(華族受給者中118位)[10]

明治17年(1884年)7月7日の華族令の施行で華族が五爵制になると、同月8日に旧小藩知事[注釈 2]として子爵に列せられた[12]

2代子爵忠方貴族院の子爵議員に当選して務め、研究会に所属[13]。また実業家としても活躍し東京府多額納税者であった[13]。彼の代の昭和前期に西尾子爵家の住居は東京市麹町区九段にあった[13]

脚注

注釈

  1. ^ 明治2年6月17日の版籍奉還時、藩財政と藩知事の個人財産の分離のため、藩の実収入(現米)の十分の一をもって藩知事個人の家禄と定められた[9]
  2. ^ 旧花房藩は現米1万4570石(表高3万5000石)で現米5万石未満の旧小藩に該当[11]

出典

  1. ^ デジタル版 日本人名大辞典+Plus『西尾光教』 - コトバンク
  2. ^ 新田完三 1984, p. 665.
  3. ^ 新田完三 1984, p. 666.
  4. ^ 世界大百科事典 第2版『西尾氏』 - コトバンク
  5. ^ 新田完三 1984, p. 667.
  6. ^ 浅見雅男 1994, p. 24.
  7. ^ 小田部雄次 2006, p. 13-14.
  8. ^ 霞会館華族家系大成編輯委員会 1985, p. 21.
  9. ^ 刑部芳則 2014, p. 107.
  10. ^ 石川健次郎 1972, p. 43.
  11. ^ 浅見雅男 1994, p. 152.
  12. ^ 小田部雄次 2006, p. 334.
  13. ^ a b c 華族大鑑刊行会 1990, p. 256.

参考文献


西尾家

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西尾寿造」の記事における「西尾家」の解説

鳥取県鳥取市吉方温泉) 西尾家について、早稲田大学名誉教授井伊玄太郎によると「西尾寿造父母(重威=三田家つる子浦家)はともに士族出身ではなく町家出身ではあったが、士族の家を継いだであった士族買ったともいわれている)。すなわち西尾家は寿造の父母の頃には、真実に士族でなくとも、士族資格は金で買えし、またその資格形式的になっていたにせよ、まだ個人運命一部支配するをもっていたのである彼の兄弟姉妹十一人(一人男の子早く死亡であったが、男兄弟のうち少なくとも三人他家養子となっている。長男幸太郎次女米子(わたくしの母)とを除いて寿造の兄弟姉妹多く平凡な人間であった。 兄の幸太郎同志社大学神学部をでて牧師として活躍し、その兄弟姉妹一部長女久子次女米子三女とめと父母とをクリスチャン導いたが、西尾寿造もその感化をうけたらしく、われわれがきいたところでは、鳥取中学を卒えて東京にでて士官学校をうけにゆくとき、彼の両親と兄とは彼に酒と女に注意せよおごそかに勧告したようである。」という。 妻・政子酒井忠利海軍少将三女長男重一 長女寿子兵庫県木村益三嫁す二女典子熊本県鈴木憲輔に嫁す

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