製造の開始
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 07:07 UTC 版)
「ヴァナヤン自動車工場」の記事における「製造の開始」の解説
会社が設立された直後、ヘルシンキのバリラにあるSAT工場で製造が開始される。ウュフテイシスの車両はSAT車両とは別に製造が行われている。ヘルシンキから離れ車両製造を行うべきであるのは当初から明白であり、同社は、鉄道、道路、水路の接続に適切な候補地選びを開始している。当初のアイデアは、岩盤に掘られた洞窟内部に工場を建設するものであった 。バンカーに最適な候補地がハメーンリンナの隣町であるヴァナハで発見され、ウュフテイシスは1944年3月14日に31.1ヘクタール(77エーカー)の土地を購入。鉄道管理局は、この地域で鉄道路線を構築し接続させるウュフテイシスの建設計画案の受け入れを行っている。バンカーに向けた掘削作業は1944年7月に開始。しかし、費用と時間の不足により、計画を修正する必要に迫られており、最終的に全ての製造区画が地上に建設されている。工場は1944年11月初旬に落成。アルヴァ・アールトは工場労働者のための宿舎の設計を行っている。 1945年8月1日、ヴァナハで造られた最初のトラックは「Sisu S-22」の試作車であった。短時間で集中的に行われたテスト期間の後、1945年10月29日に量産化が開始されているが、資材や部品が不足していた上に、品質に問題が発生したため、1946年の初めまで出荷できない状態であった。国内サプライヤーの生産能力は非常に限られており、国内企業が独自生産ができる様になるまで、ギアボックス、ステアリング関係、ドライブシャフト、電気システムなど全て輸入に依存している。フィンランド国内のサプライヤーは入手可能な材料で必要とされた品質要件を満たすことができず、深刻な品質問題に直面している。1946年のSisu S-22の総生産台数は僅か147台であり、目標の2,000台をはるかに下回っている状況であった。コスト面でも当初計算した一両辺りの価格は765,000mkであったが、最終的に800,000mkにまで高騰している。 量産化が行われる前に戦争は終わり、結果として国防軍は車両が必要なくなっており、逆にモスクワ休戦協定によって国防軍は車両台数を減らす必要に迫られている。この理由から不満を抱えた多くのサプライヤーが事業を中止しており、1946年末に貿易産業省は車両供給契約の打ち切りを発表。1946年初頭、ウュフテイシスは国が購入しなかった場合、その余剰車両の民間市場での販売に関し通商産業省との間に合意を取り交わしており、Sisu S-22sは、フィンランド国内にある12のSATディーラーで販売が行われている。1946年5月に開催されたヘルシンキ国内産業見本市では、軽量で低コストモデルとなる後継車両「S-22K」を発表している。
※この「製造の開始」の解説は、「ヴァナヤン自動車工場」の解説の一部です。
「製造の開始」を含む「ヴァナヤン自動車工場」の記事については、「ヴァナヤン自動車工場」の概要を参照ください。
Weblioに収録されているすべての辞書から製造の開始を検索する場合は、下記のリンクをクリックしてください。
全ての辞書から製造の開始を検索
- 製造の開始のページへのリンク