製造を決意するまで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/08 07:55 UTC 版)
岡崎がコンピュータの世界に初めて触れたのは1948年で、「科学朝日」にIBMのコンピュータ、SSECの記事を読み、前から考えていた事が現実になったのを悟る。 1949年には同社のレンズ設計課で、カメラレンズの設計課長を務めていたが、レンズの設計には複雑な計算が必要で、当時の機械式計算機では精度が低く、数十人の社員が数表で計算していた。岡崎はその作業の効率化のためにコンピュータが有効だと考えたが、当時コンピュータは海外の大学ぐらいにしかなかった。国産コンピュータを作ろうとしていた者は多数いたので、岡崎も自作を考える。 岡崎の卒業した八高は、高度な数学を教えると評判で、「二進法は便利」「数はゼロから数えた方が便利」など、型にはまらない独創的な事を行っており、この事からコンピュータと二進法にも抵抗がなかったという。さらに大学にいた際、理研の仁科研究室で粒子を数えるカウンターにデジタル回路が使われており、無音で高速な点が気に入りカウントでなく計算にも使えるのではと調べてみた事もあった。 そして「レンズ設計の自動的方法について」という提案書を会社に提出。これが認められ、1949年3月に20万円の研究予算を手にした。
※この「製造を決意するまで」の解説は、「FUJIC」の解説の一部です。
「製造を決意するまで」を含む「FUJIC」の記事については、「FUJIC」の概要を参照ください。
- 製造を決意するまでのページへのリンク