裁判所構成法・財産法・民訴法・商法
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 21:34 UTC 版)
「民法典論争」の記事における「裁判所構成法・財産法・民訴法・商法」の解説
1890年(明治23年)2月、裁判所構成法公布。 4月、法律第28号により財産法公布(21日官報)。施行予定日は1893年(明治26年)1月1日。署名者は明治天皇、山縣、山田、青木、西郷従道(海軍大臣)、松方正義(大蔵大臣)、大山巌(陸軍大臣)、榎本武揚(文部大臣)、後藤象二郎(逓信大臣)、岩村通俊(農商務大臣)。 同時に公布された民事訴訟法は両派からの評価が高く、施行予定日の1891年(明治24年)1月1日までに修正論は起きなかった。 旧商法は、枢密院の抵抗により5日遅れて公布(26日官報)。なお、民商法が同日施行と記述する文献も散見される。 商法施行予定日は1891年(明治24年)1月1日。民法より先に施行するのは、内外の取引の複雑化に乗じて不当の利益を貪る連中に早急に対処するためというのが元老院に対する説明、条約改正交渉の便宜のため、外国人との商取引の安定を急いだというのが山縣首相への説明であった。 5月、公布された財産法が外国法の模倣で、自国に合わないのではないかとの門外漢の問いに対し、ボアソナードは慣習の立法化の例として、樹木のツッカイ棒を用方による「不動産」に含めた財産編9条4号を指摘(東京日日新聞5月6日)。しかし、公布年の一般メディアの旧民法批判はその程度に過ぎず、商法と異なり盛り上がりを欠いた。 なお同条は不合理な慣習違反と批判され、明治民法では先述のように独法系の「従物」に解消した上で、独法よりさらに簡略化している(現87条2項)。 6月、江木は「新法典概評」を発表し、共和主義の仏法典を日本に移植したことを批判(法理精華35・38号)。ただし、共和主義そのものへの批判ではなく、ボアソナードの独自説による中途半端な改変から生じた適用上の困難を攻撃したものである。 全然仏国民法典を採用せば或は可なりしならんに、之に多少の変更を加へ却って紛擾を来すの種を播きたるは不幸中の不幸なり。 — 江木衷 江木の旧民法攻撃は政府を怒らせ、法理精華発禁・廃刊の原因になったと言われる。 8月、梅謙次郎が仏独留学から帰国、帝大教授兼和仏法律学校学監に就任。伊藤博文にもブレーンとして重用される。
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