行き詰まり:1966年 – 1967年
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「トム・パーカー (マネージャー)」の記事における「行き詰まり:1966年 – 1967年」の解説
その後の1960年代の残りの時期、プレスリーはエキゾチックなロケーション撮影と平凡な歌に依存した映画を作り続け、逃れる事のできない契約に縛られていた。パーカーは、映画の良し悪しは気にかけなかったが、収益にはうるさかった。プレスリーが、脚本がひどいからもっと良いものにして欲しいとこぼしたとき、パーカーはプレスリーの贅沢三昧の生活スタイルの状態と、ほとんど何もせずに年100万ドルを稼げる状態をフイにするかもしれないリスクを指摘した。ビートルズ、スプリームス、ローリング・ストーンズ、ボブ・ディランといったアーティストたちがチャートを席巻するようになる中、プレスリーのキャリアは動きを止めていた。パーカーは、後に1983年になって、プレスリーの映画とサウンドトラックから得られた収入が1966年以降は劇的に減少していたことを認めた。 収入減を挽回するため、パーカーは、プレスリーの黄金のキャデラックをツアーに送り出す手配をした。パーカーがRCAに24,000ドルで売ったキャデラックは、プレスリーの最新の映画『フランキー and ジョニー (Frankie & Johnny)』の宣伝のために利用された。このキャデラックのツアーは、映画自体よりも大きな反響を呼ぶ成功を収めた。ニューストンでは、ある日の午後だけで、4万人がこのキャデラックを見るために入場料を支払い、ある女性などは、この車の座席に座らせてもらえるならツアー・マネージャーとセックスをしてもいいとまで言い出したという。 1967年1月2日、パーカーは、マネジメント代理契約についてプレスリーと再交渉を行ない、それまで25%だった自分の取り分を50%にまで引き上げるようプレスリーを説得した。この契約について質問した評論家に対して、プレスリーは「70%を取っていくイースト・コースト・エンタテイメントとだって契約したかもしれないぜ! (I could have signed with East Coast Entertainment where they take 70 percent!)」と切り返した。パーカーは、自分にとってプレスリーはたったひとりのクライアントであり、自分はプレスリーからしか収入を得ていないのだという理屈を述べた。 1966年、プレスリーが再びパーカーに反抗するそぶりを見せた後、人気の陰りもあり、パーカーは新しいアプローチを行なう時期が来たと判断し、プレスリーの結婚を仕掛けた。フランク・シナトラは、1966年にミア・ファローと結婚して大きな宣伝効果を上げていたが、パーカーはこれに注目していた。プレスリーは既に、10歳年下のプリシラ・ボーリューと4年間同棲していたが、その事実は公にされていなかった。ジェリー・リー・ルイスが、当時13歳だった従妹と結婚した事が明らかになったときには、ルイスの人気はガタ落ちになっており、パーカーは同様のスキャンダルがプレスリーに起こる事は許さなかったのである。 パーカーは、結婚がプレスリーの人気を再燃させるだけでなく、プレスリーを手なずける事になると期待していた。既にプリシラの父親がふたりの関係をほのめかしており、関係が発表前に公けになることを恐れたパーカーは、なるべく早く彼女との関係をきちんとしたものにするようプレスリーを説得した。しかし、彼らの結婚式は平穏なものとはならなかった。パーカーは、結婚式をラスベガスでやると決め、1967年5月1日にふたりは、わずかな招待客だけが立ち会った、たった8分間の結婚式を挙げた。メディアが新婚のふたりの写真を撮影した後、レセプションとして朝食会が設定された。この結婚式はサーカスのようだったと述べる者もいた。
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