血液型の発見から第一次世界大戦まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/30 20:28 UTC 版)
「血液型占い」の記事における「血液型の発見から第一次世界大戦まで」の解説
血液型が発見された当時、医学上の大発見であったため、血液型による判定がブームとなったが(後述書 p.204)、ヨーロッパの白人にはA型が多く、極東からの出稼ぎに来ていた黄色人種にはB型が目立ったことから(あくまでヨーロッパ在住アジア人による)、B型に対する偏見視が始まる(後述書 p.204)。この頃、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世達が主唱者となった「黄禍論」が伝播しており、黄色人種に対する警戒論と共にB型蔑視・人種差別が引き起こる(後述書 p.204)。ここから白人優位・A型人種優位論に置き換えられていく(後述書 p.204)。第一次世界大戦終結後、ポーランドの医師・ヒルシュフェルト夫婦が大戦に参加した兵士の血液型を調査した結果として、ヨーロッパにA型が多く、極東に向かうにつれ、B型が多いことを発見した(後述書 p.204)。このことからも分かるように、偏見の源流は日本ではない。 1911年からドイツに留学していた原来復はA型であったが(後述書 p.206)、のちに不快感を覚えることとなる。病理学者デュンゲルンのヨーロッパで戦争が起こりそうだという忠告から原は1914年6月(一次大戦は翌月に起こる)に帰国するが、原がヒルシュフェルトの研究結果を知ることになるのは帰国後である(後述書 p.206)。この研究結果から「生化学的人種係数」へと発展していく(後述書 p.206)ことになるが、当時の日本人の血液型分布で計算すると、1.55となり(後述書 p.206)、ヒルシュフェルトの基準からすると、ヨーロッパ型とアジア・アフリカ型の中間となる(後述書 p.206)。明治維新以来、西洋諸国をモデルとし、西洋人同様、日本人は勝気である必要があったが、現実としては、ヨーロッパ型ではなく、中間型であり、日本人のコンプレックスを引き起こすことになる(後述書 p.206)。当時、日本において血液型の詳細を知っていた原はここから血液型の研究を活発に展開し、1916年(大正5年)5月31日付の『信濃毎日新聞』において、「(要約すると)ある種の猿は幾分かA成分を有しているが、多くの動物はB成分であり、欧米人にB成分が少なく、日本人に多い理由をもって、ただちに人間の優愚を論ずることは酷に失する嫌いもあるが、性質を異にする点は余程明瞭なことであろう」と論説を出し、のちに助手の小林栄と連名で7月25日付の『医事新聞』第950号に論文を出している(後述書 p.208)。この論文の内容は、B型の身体的特徴として、細身で優しそうな人だとか、A型の子は従順で成績が優秀に対し、B型は粗暴で成績もビリであったといったものであったが、ここに日本における血液型性格学が誕生する(後述書 p.208)。
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