著述の目的
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劉知幾は、幼いころからの学識に加えて、初唐の『五代史』や『晋書』の編纂作業場を実見した経験もあり、それらを再検証することで、歴史書を執筆する際の記事の採録法の問題点やさまざまな事実誤認を発見していた。しかし、劉知幾が従事した史館の実情は、監修国史が矛盾する編集方針を求める上に、無知無能な同僚に囲まれ、劉知幾はさまざまな非難を浴びるなど散々な状況であった。 こうした状況に絶望した劉知幾は、景龍2年(708年)に辞表を叩きつけた。この辞表は『史通』忤時篇に収録されており、そこで劉知幾は史官を務めながらも国史編纂を完成させられない理由として以下の五カ条(五不可論)を挙げている。なお、この時も含めて劉知幾は何度も辞職しようとしたが、結局は許されなかった。 史局にあまりに編纂官が多く、各自が牽制し合って一言一言を記述するのにさえ決断がつかず、編纂作業が進捗しない。 史局に資料が集まらず、史官が自分で資料を集めなければならない上に、政府機関に制度の記録を訪ねても失われている。 史官たちが中央の権力者と深いつながりを持っていて、事実を直書しにくくなっている。 史局に高官の監督官が何人も置かれ、しかも彼らの間に統一見解がなく、執筆者は仕事にならない。 監督官がはっきりと基準を立てる、各執筆者の分担を定めるといった仕事をせず、責任を回避するばかりで先に進まない。 劉知幾は、こうした史局の状況下で、長安年間の国史編纂や神龍年間の『重修則天実録』編修の際に自分の意見が取り入れられなかったことを残念に思い、自分の主張を著述の形で後世に伝えようと考えた。そこで劉知幾が、公務とは別に私撰として書いたのが『史通』で、その制作の根底には史官としての自分の意見が取り入れられない彼の鬱憤や挫折感があった。 劉知幾は『史通』において、歴史記述の方法(特に正史の記述法)に対する批判を通して、あるべき正史を作るための方法を確立しようと試みた。それは後世の史官のために、国史・実録執筆の際に不可欠な方法論や心構えを提示するものであった。こうした史学批評の専門著作は、中国のみならず、世界的に見ても『史通』が最古級の著作であるとされる。 「劉知幾#史才論」も参照
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