著述の背景
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/16 16:17 UTC 版)
全盛を誇った清朝も、19世紀半ばには衰えの兆しを見せ始めた。社会の各層に矛盾が生じて国内では反乱が起こり、国外からはヨーロッパ列強からの圧力が高まった。1840年にはイギリスとの間で阿片戦争がおこり、1856年にはアロー号事件を契機としたアロー戦争に清朝は敗れた。馬建忠15歳のときである1860年には、北京はイギリス・フランスによって攻略され、清朝は両国から天津の開港と、九竜半島のイギリスへの割譲という屈辱的な北京条約の締結を迫られた。ヨーロッパ列強国の実力を目の当たりにした清朝政府や多くの知識人たちは、改めて先進の諸外国への目を開き、中国を救うためには外国に学ぶしかないと認識するようになった。馬も同様に、中国を富強にするためには西洋の先進技術を学ばなければならず、そのためには中国での古い教育や学習の方法の欠点を改め、児童たちが多くの時間をかけずに古典書物を合理的に学ぶことが必要だと考えた。そしてそれを実現するには、ヨーロッパの言語の法則を基準としながら、経書のなかに隠されている構造の法則、すなわち中国語の確かな文語文法を築かなければならないと考えた。馬は20年の歳月をかけて、『論語』・『国語』・『春秋左氏伝』・『史記』・『漢書』から多くの材料を集めて分析し、その結果をヨーロッパでいうgrammarの書に相当する『馬氏文通』として書き上げた。
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