落傷事故による失脚と死亡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/15 10:16 UTC 版)
「アントニオ・サラザール」の記事における「落傷事故による失脚と死亡」の解説
1968年8月3日、リスボン郊外のカスカイスにあるサント・アントニオ・ダ・バッラ城砦で静養中だったサラザールは愛用の椅子が壊れ頭部を強打し、この事故により権座から降りることになる。慢性的な頭痛を患ってきたサラザールは自分が負傷した事実を主治医を始めとする周辺の人々にも隠したが、すでに脳出血の症状が現れ、9月5日には頭痛に耐え切れず、主治医を呼んで診断を受けた。9月7日の緊急手術により二つの脳血栓が発見された。サラザールの予後は初めは安定しているように見えたが、1週ぶりに意識不明の重体となった。サラザールが回復する見込みがなくなると、アメリコ・トマス大統領は9月17日に閣議を招集し、後継首相としてマルセロ・カエターノを任命することを決めた。9月27日、サラザールは本人も知らないまま首相職から解任された。 サラザールは2ヶ月後に意識が回復したにもかかわらず、後遺症のために伴う身体が部分的に麻痺したり、最近の事件について記憶を失った。1969年2月5日、サラザールは退院してサン・ベントの官邸に戻り、その間に側近や医者たちはサラザールにショックを与えないため、官邸の執務室を病態に陥る以前と同じ状態に保全させた。また、彼の権力が失われた事実を見せたり、関連するニュースは一切記載されない偽の新聞を読ませ、落胆に見舞われないよう配慮した。これを全く気づかなかったサラザールはもはや何の影響力も効力のない命令書を書き、偽の新聞を読んで晩年を過ごした。 死去1ヶ月前、サラザールは家政婦のドナ・マリアに自分が置かれている立場を振り返りながら「私は残酷に無視された。誰も私に政治について話さない」と何が起きたかに気付いたかのように話した。ドナ・マリアが大統領に問い詰めない理由を聞くと、サラザールは「私は何も言わないよ。彼をして私が権力や国政に愛着があると思わないことを望む。しかし、私は残酷に追い出された。彼らが私の病気を口実に私を取り除いたら… とにかく、それは良くない。仕事をそんなに処理してはいけないよ」と余韻を残した。1970年7月27日午前9時15分、サラザールはサン・ベントの官邸で主治医と家政婦が見守る中、肺塞栓症により死亡した。3日間の国葬が行われた後、遺体は7月30日に故郷へ移送され両親の墓所の隣に葬られた。サラザールの死後、カエターノ首相は漸進的な改革を進めつつも、エスタド・ノヴォ体制とアフリカでの植民地戦争を継続する方針は変わらなかった。しかし、ポルトガル軍の大尉達が次第に体制への不満を募らせた結果、1974年4月25日のカーネーション革命により打倒された。
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