草創期・アディダスとの競争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 19:22 UTC 版)
「プーマ」の記事における「草創期・アディダスとの競争」の解説
分裂後、プーマとアディダスは熾烈な競争関係に入った。この問題についてヘルツォーゲンアウラハの町はふた手に分かれ、町の人々が他人が履いている靴を確認するため頭を傾けるさまから「首を曲げた町」という渾名が付けられた。両社の社員の子はどちらに勤めているかで入学する小学校が決まり、町にあるふたつのサッカークラブは、ASVヘルツォーゲンアウラハはアディダス、1.FCヘルツォーゲンアウラハはプーマのサポートを受けた。雑役夫たちはルドルフの家に呼ばれた際、わざとアディダスの靴を履いて行った。ルドルフは彼らに対して地下室から無料のプーマを一足持ってくるように言った。 1948年、第二次世界大戦後最初のサッカー西ドイツ代表の試合では、戦後最初のゴールを決めたヘルベルト・ブルデンスキを含む複数人の選手がプーマのスパイクを履いた。4年後の1952年ヘルシンキ夏季オリンピックでは、1500メートル走でルクセンブルクのヨジー・バーテルがプーマを履いて金メダルを獲得する最初の選手になった。 1960年代になると、自社製シューズを履いてもらうためにスポーツシューズメーカーがアスリートに金銭を支払うことが常態化し、オリンピックの開催時期にはプーマのアルミン・ダスラー(ルドルフの息子)と彼のいとこにあたるアディダスのホルスト・ダスラー(アディの息子)が宿泊するホテルの部屋の前には、報酬を受け取ろうとするオリンピック選手たちの列ができたという。1960年夏季オリンピックでプーマはドイツ人の短距離走者アルミン・ハリーに100メートル走決勝でプーマを着用してもらうために報酬を支払った。それまでアディダスを履いていたハリーは、アドルフに金銭支払いを求めたが拒否されていた。ハリーはプーマで金メダルを獲得したが、表彰式にはアディダスで現れ、ダスラー兄弟に衝撃を与えた。ハリーは両者から報酬を得ることを望んでいたが、アディは立腹して、このオリンピックチャンピオンを出入り禁止にした。 1970 FIFAワールドカップに先立って、アルミン・ダスラーとホルスト・ダスラーは「ペレ協定」と呼ばれる協定に調印した。これはペレとの契約をめぐる争いが起きれば、金額の高騰に歯止めがきかなくなるのが明らかなため、彼にはアディダスとプーマ双方が関与しないとする取り決めだった。しかし、プーマの代理人ハンス・ヘニングセンが総額12万5000ドルと彼の名前を冠したシューズのロイヤリティという条件でペレと契約を結んだことにより、ペレ協定は破られた。ワールドカップ決勝戦の試合開始直前、ペレは審判に靴紐を結び直すための猶予を求め、それによって何百万人ものテレビ視聴者が画面に大写しになった彼の足元のプーマを見つめた。サッカーオランダ代表のヨハン・クライフとプーマが交わした契約書には「他のスポーツブランドを宣伝する行為は慎むこと」という条項があったため、オランダサッカー協会がアディダスと契約した後も、クライフはスリーストライプではなく2本線が袖に入ったシャツを着てプレーした。
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